ローマイヤのハム

 柿の時期で祝日だったから、9月か10月だったのだろう。休日出勤は、夜の勤務に準じて、3人編成だった。食事は、ひとり30分ずつにして、ひととおり終ると、また順に30分ずつ休憩する。1時間ずつ取っても同じことだが、そうすると3番目の人が、昼食だかお三時だかわからなくなってしまう。
 食事がひとまわりすんで、これからお茶でも飲みに行くかな、というときに、その電話は鳴った。釜本次長のお客様の、荻窪の画家の奥様からだった。「坊やが元気がないので、ローマイヤのハムと千疋屋の柿を食べさせたいそうだ」といって、次長はあわてて買い物に走った。ハムと柿がすぐに揃った。「きみ、わるいけど、至急これを届けてきて」 ぼくは袋を受け取ると、すぐに店をとび出した。
 銀座から地下鉄丸ノ内線荻窪へ。坊やのために一刻でも早く届けたい。駅から歩いて10分の距離を走って、ダッシュまたスパート、はしれメロスのごとくふらふらになってお宅にたどりついた。
 勝手口から呼び鈴を押すと、お手伝いさんのスウさんが、はあーい、と甲高い声をあげてドアをひらいた。そしてぼくを見ると、家の奥に甲高い声で、「奥さまあ、ボクチャンの、とどきましたよー」と告げた。奥様は、転びそうになりながら、あえぐように飛んでくると、ぼくの手からハムと柿の入った袋をひったくるようにして取った。「ありがとう。恩に着ますよ」と一瞬、泣き出しそうな顔をして、奥に消えた。廊下を奥様の「ボクチャーン、ローマイヤのハムと千疋屋の柿がきましたよー。いま、食べさせてあげるから、いっぱい食べて元気になってねえー」という声が駆けて行くのがきこえた。店にもどると、まだ時間があるから、休憩時間のつづきをしよう、と次長がいった。3番目の人は、もどってくるころ閉店だけど。
 残念なことに、ローマイヤのハムと千疋屋の柿の甲斐もなく、しばらくしてボクチャンは永眠した。
 それにしても、とぼくはおもう。あれから15年、ぼくはまだ、いまだにローマイヤのハムも、千疋屋の柿も食べたことがない。千疋屋のバナナなら何度も食べたことがあるけれど。食生活が貧しいということなのだろうか、犬よりも。