2005-01-01から1年間の記事一覧

志村喬先生

志村喬先生は、奥様と銀座に来られると、帰りがけにかならずフジヤ・マツムラに立ち寄られた。 先生は無口で、ほとんどご自分から話されることはなかったようにおもう。椅子に深く腰かけて、女子社員がいれたお茶をすすりながら、上司とあれこれおしゃべりさ…

うわさ話

〈うわさ話その1〉 齋藤十一氏は、新潮社の顧問だった。「週刊新潮」や「FOCUS」の生みの親で、陰の天皇と呼ばれていた。その昔、「新潮」にはじめて石川淳先生の作品を獲得したのは、編集者時代の齋藤氏だった。すでにして伝説の人物で、社内でもほとんどの…

職人

ハンドバッグのメンテナンスは、だれでも簡単にできる。 オリジナルのハンドバッグは、店では特選と呼んでいたが、これは職人の高梨さんの仕事だった。 高梨さんは、陸軍の工兵隊で、おもに橋をかけたり、貨物列車の線路を敷いたりしたらしい。 レールのわき…

お手伝いさんor奥様

昭和50年代には、まだお手伝いさんのいるお宅が結構あった。 京都で最初に挨拶回りをしたときは、はじめてお目にかかる方ばかりで、まるきりお客様の顔を知らずにご案内状を届けてまわった。左京区鹿ヶ谷、法然院の近くのT様のお宅は、伺うといつも年配のく…

勘違い

世田谷に挨拶回りに行ったとき、どうしても1軒のお宅が見当たらなかった。 その住所の場所は、長い塀がつづいていて、それらしい家がない。塀は、こちらの角から向こうの角まで、ずうっとつづいている。それもそのはずで、近くに立っていた住居表示板でよう…

一本のネクタイ

そのサラリーマンは、毎月、月給が出たころにやってきて、ネクタイを1本だけ買った。 その1本のネクタイを選ぶのに、じっくりと時間をかけてさがしたので、たいていの社員は面倒くさくなって、相手をしたがらなくなった。それで砂糖部長にお鉢がまわってきた…

外村さん

倉庫のおじさんがいない時期に、社長が通りを歩いていたら、むこうから外村さんが歩いてきた。 外村さんはもう、70歳くらいになっていたのに、童顔で、おかっぱ頭のウド鈴木みたいな顔で、いつもヘラヘラ笑っていた。 「外村さん、いま、なにやってるの?」 …

エルドールのケーキ

ソニー通りを新橋の方向に、みゆき通りを越していった次の角に、昔、エルドールというケーキ屋さんがあった。30年近く前にショートケーキが600円もした。銀座でいちばん高いケーキ屋さんだった。しかも、じつにおいしかった。 不二家なんか(といったら叱ら…

たこ焼き屋

みゆき通りとソニー通りの角、ちょうどフジヤ・マツムラのわきに屋台のたこ焼き屋さんは出ていた。たこ八という屋号だった。 たこ焼き屋さんをやっていたのは、種子島から上京した兄弟だった。みんなでたしか4人いたとおもう。夕方、一番上の兄貴が屋台を引…

クリーニングと本業の話

ワイシャツの場合、意外な具合にその良さが伝わって、ご注文をいただくことがある。 いまはわざわざ集荷にくるクリーニング屋さんが少なくなったが、以前はご用聞きにバイクや車で、近場なら自転車でまわってくれるクリーニング屋さんがたくさんあった。昨今…

たこ焼きとサソリ

T建設の副社長だったM氏は、最後はその傍系のT道路の社長になった。ぼくがお会いしたときには、もう社長さんになっていて、なんだか暇そうでしょっちゅう銀座にやってこられた。 みゆき通りにグリーンのジャガーを駐車されて、もちろん運転手付きだから、運…

長谷川一夫先生

長谷川一夫先生がいらしたとき、それをきいた値札付けのおばさんの川中島さんは、色紙がなかったのでノートを切り取って、あわてて事務所からとび出してきた。そして、店の裏口から入ると、試着室のカーテンのかげからそっと様子をうかがった。 ぼくは、長谷…

七村さん

6階の倉庫には七村さんというおじさんがいて、荷物の梱包や商品の整理をしていた。 七村さんは、出社すると、すぐに作業着に着替えた。白いワイシャツに黒いズボンで、それなら、出社したときとぜんぜん変わらないように見えた。 「だから、ばかだっていうん…

大将

フジヤ・マツムラの創業者は、社員から大将と呼ばれていた。 京橋界隈にあった旧い左官屋さんの息子で、子どものころから勉強が大嫌いだった。本をひろげると、頭が痛くなったそうだ。 昔は、家を継ぐ長男以外は奉公に出るのが普通だったから、たぶん小学校…

続・先輩としてのぼく

その後輩の名前は、もう忘れました。 安西水丸さんの髪型を、村上春樹さんの頭に取り替えたような顔を想い浮かべてください。それで、服装はトラッドです。なかなかにおしゃれでした。 彼、でもいいのですが、かりにキティちゃんと呼んでおきます。 キティち…

先輩としてのぼく

ぼくは、後輩に威張ることもしなかったし、いじめることもなかったとおもう。しかし、ぼくがそうおもっているだけで、後輩たちが実際にどうおもっていたかなんて、知るよしもない。 これが先輩の場合は、立場が逆だから、なにかをいいつけたり、やらせようと…

僧玄奘の話し

益州とは、中国西南区四川省蜀の称である。 唐の時代、ここに空恵寺という寺があり、のちに三蔵法師とたたえられる僧玄奘が、病めるインド僧とここで出会い、看病のお礼に短い経を口授された。 玄奘は、真摯に仏教の勉強に励んでいたが、瑜伽論にどうしても…

日本橋支店のあるできごと

有金君は、日本橋高島屋の2階特選にあったフジヤ・マツムラコーナー(日本橋支店とよばれていた)の店長として、何年かのあいだ出向していた。そのうちに、彼は非常に優秀だったので、イタリアブランドのヘルノの総代理店にいつの間にか眼をつけられ、ヘッド…

続々 値札付けのおばさん

3人目の値札付けのおばさんは、豌豆さんだった。 豌豆さんは、結婚してからずっと主婦をやってきて、結婚前にも勤めたことがなかったから、50歳にしてはじめて仕事というものについた。 二人の子どもが大きくなって、ぜんぜん手がかからなくなってみると、な…

続・値札付けのおばさん

川中島さんのあとにきた値札付けのおばさんは、斜塔さんといった。 斜塔さんは、大学を卒業してからずっと、NHKでアルバイトをしていた。 何十年もNHKでアルバイトができるものかわからないが、斜塔さんの話のなかに木村さんとか森本さんとかいう名前がでて…

値札付けのおばさん

値札付けのおばさんの話をしよう。 ぼくが入社したときには、川中島さんというおばさんが値札付けをしていた。 値札は、機械で印刷(というか、印字)していたが、品番や記号を糸の付いた小さな(3.5×4.5センチくらい)紙の札のなかに打ち込むため、活字もそ…

美食家のA氏

A氏は、指揮者で美食家だった。 ぼくは、指揮者といえば、カラヤンと小沢征爾しか知らない。 同様に、美食家というのは、レックス・スタウトのミステリに登場する、「蘭とビールと美食をこよなく愛する巨漢探偵ネロ・ウルフ」しか知らない。いや、こちらのほ…

K氏とNさん

Nさんは、もと看護婦さんをしていた(お客様だから、N様、というべきだが、うちうちでは親しみをこめて「さん付け」していた。山口瞳先生を、かげで「瞳さん」とおよびしていたのと同じように)。 華麗な男性遍歴があるという噂で、年齢のわりに白いつやつや…

K氏の青いビル

バブル景気というのが、かつてあった。景気が長く低迷していると、そんなことがあったっけ、と不思議におもえるかもしれない。 1980年代後半から90年代初頭にかけての、本当にいつはじけてもおかしくないほどの浮ついた景気のよさというのは、ほとんどバブル…

ヒトラーのその後

フランスから綿貫君が帰ってきたので、銀座で待合せることにした。1983年のことだ。 綿貫君は、なぜだか丈の短いスラックスをはいている。 「そのズボン、短くないかい?」 と、私はわざとたずねた。 「え? そうでしょうか。短いですか?」 といって、彼は…

砂糖部長とアイス

約束は夜の9時だったが、砂糖部長がなんだか落ち着かないようで、食事をすませて6時にロビーに集合しよう、といった。名古屋市内のビジネスホテルに泊まったときのことだ。 ホテルの外でアルバイト運転手のA君と味噌カツ定食を食べて戻ってくると、ロビーで…

砂糖部長と鰻

新幹線に乗って移動していたんですよ、と有金君はいった。 なぜか自動車は使わずに、新幹線とレンタカーを乗り継いで外商したんです。きっと、ぼくにずっと車を運転させるのは危険だと砂糖部長はおもったんでしょう。3カ月先輩の福居さんもいっしょでしたが…

散歩する老人

毎日のように午前中、きまった時間に家の前の道を老人が通った。小ざっぱりとした服装で、血色もよく、やや太っていた。いつも女性が付き添っているが、年齢の離れた娘か、息子の嫁のようにも見えた。手を引くほどではないようで、話の相手をしながらゆっく…

内田百間的な

高橋義孝氏の「随筆 内田百間」(ひゃっけんのけんの字は、もんがまえのなかに月なのだが、パソコンの漢字にはない字なので、間を代用します。しかし、もとはといえば、故郷岡山の川、百間川からとった号で、ご本人も最初は百間と書いていたようだから、間違…

T氏とH氏と

朝の掃除はシャッターを上げてからすることになっていた。シャッターを上げ、それから帆布のひさしをおろす。ウィンドウのガラスを磨き、店内のガラスの戸や、ガラスケースの表面をふく。洋品店はガラスでできているといっても過言ではなく、どこもかしこも…