内田百間的な

 高橋義孝氏の「随筆 内田百間」(ひゃっけんのけんの字は、もんがまえのなかに月なのだが、パソコンの漢字にはない字なので、間を代用します。しかし、もとはといえば、故郷岡山の川、百間川からとった号で、ご本人も最初は百間と書いていたようだから、間違いともいえない。同時代の芥川龍之介の評にも、内田百間氏となっています)のなかに、「ところで内田百間とは、如何なる人物か。一言を以っていえば、くそじじいである。ああ実に何ともかんとも憎たらしいくそじじいである。こういう憎たらしいくそじじいは、世間にそう滅多にいるものではない」とある。ぼくは、くそじじいといったら、即座に砂糖部長をおもい出す。
 自動車外商で地方の郊外を移動しているとき、後ろの席から、「きみ、そろそろどこかで食事にしよう」と声がかかった。
 肝臓の具合がわるくて、本人の弁によると、お腹が空くと胃が軽くなって上のほうに浮いてくる。浮いてくるとそこにある肝臓にぶつかるから、途端に痛み出す。だから、常に胃に食物が貯まっている状態をつくって、間違っても胃が浮くような事態は避けなければならない。わかったような、わからないような理屈である。しかし、実際に空腹になったとき(食事時間は気にして、いつも規則正しく摂っていたけれど、ちょうどお客様で摂りそこなうこともありました)、顔色は黒っぽい紫色に変わり、唇も乾いて白くなり、ぎょろりと剥いた目玉の白目の部分がみるみる真っ赤に充血して、脂汗をながしてしばらくうずくまってしまうのを一度ならず目の当たりにしたことがあるから、とてもたかはくくれない。これからうかがう町には、食事するところなどいくらでもあるのだが、まだずいぶん距離がある。
 どこでもいいから、すぐに店に入って、とにかく何か食べさせなければならない、とおもう。しかし、街道筋になかなかうまい具合に食堂なんか見つからなくって、苦労してようやく食事もできる喫茶店にたどりついてみると、部長は、「ぼくは洋食はいやだ」なんかいう。「ぼくはお刺身定食のようなものが食べたい」。上司にたいして失礼だが、この野郎、とおもう。どこに和食を食わせる店があるんだよ。心のなかでののしるが、もちろん口には出さない。「もうすこし、辛抱できますか?」「うん、ぼく辛抱する」。
 入れたばかりでちっとも減っていないガソリンを入れにスタンドに寄って、「このへんで和食の食べられるお店はありませんか?」とおにいさんにきいてみる。満タンときいて愛想のよかったおにいさんも、何リットルも入らないのに立腹して、つっけんどんな口調で、「この道を20キロ戻ったあたりにあるよ。おたくたち、そこらでガソリン入れてきたんじゃないの?」と痛いところをついてくる。卑屈にお礼をいって、しばらく戻りかけると、「あ、あそこに喫茶店がある。ぼくは、トーストに紅茶でもかまわない。きみたちがよければ、そこでいい」。そこでいいって、部長、その喫茶店はさっき入ろうとした喫茶店じゃないですか。