散歩する老人

 毎日のように午前中、きまった時間に家の前の道を老人が通った。小ざっぱりとした服装で、血色もよく、やや太っていた。いつも女性が付き添っているが、年齢の離れた娘か、息子の嫁のようにも見えた。手を引くほどではないようで、話の相手をしながらゆっくりといっしょに歩いていた。
 老人は、いつも声高になにか話しかけているが、連れの女性はただ頷くばかりで、会話にならない。 老人の声は太くはっきりしているけれど、家の中にいては耳を凝らしても話の中身は聞き取れない。別に内容を知りたくもないが、ときどき立ち止まっては相手にしきりに説明をしているふうで、立ち止まったのがちょうど家の前だと、つい話の後先が気にかかる。
 それはある年の夏のことで、風を入れるために道側の障子を開け放っていた。朝からじりじりと温度が上がり、蝉がうるさいくらいに鳴いていたが、存外湿度がすくなく、窓を開けると心地よい風が吹き抜けた。
 老人のいつもの声がしたので、見るともなく窓の外に目をやると、また立ち止まって身振り手振りで連れの女性になにか話している。きょうは孫がいっしょに付いてきて、二人のそばに所在なげに立っている。小学校低学年くらいの小柄な男の子で、いまどきにしてはめずらしく、白のランニングシャツに黒の半ズボン、頭には野球帽、そしてズック靴をはいている。夏休みでおじいさんの散歩についてきたが、すでに退屈してしまったように見えた。
 やがて、庭にいた家内が戻ってきたので、
「あのおじいさん、また通ったねえ」
 と、私は声をかけた。
「ああ、どこの人だかリハビリに通る人ね」
「それで、よく立ち止まるのか。いつも嫁か娘がいっしょだけど」
「あれはヘルパーの人でしょ、いつも違う人だから。危ないから付いているのよ」
「ふーん。そうか。きょうは男の子を連れていたから、お孫さんかとおもった」
「あら。男の子ってだれのこと?」
「ほら、いたじゃないか、ランニングに半ズボンのクラシックな子」
「いないわよ、そんな子。バラに水を上げながら二人を見たけど、子どもなんていなかったわよ」
「そんな筈ないさ。見たんだから」
「いなかったわ、ほかにはだれも」
 じきに老人は姿を見せなくなった。だから付き添いと通ることもない。しかし、ときどき声だけが、太くはっきりと、だがなにをいうのかわからない調子で通り過ぎる。そして、道の端で立ち止まってそれはぶつぶつと呟くと、またあっちのほうへ流れて行った。
(夏なので、「私のニセ東京日記」を登板させました)