T氏とH氏と

 朝の掃除はシャッターを上げてからすることになっていた。シャッターを上げ、それから帆布のひさしをおろす。ウィンドウのガラスを磨き、店内のガラスの戸や、ガラスケースの表面をふく。洋品店はガラスでできているといっても過言ではなく、どこもかしこもガラスで、きれいにふいてあっても、ひとたび触れれば手の油でガラスの表面はすぐに汚れてしまう(釜本次長の掌が最悪で、いつも湿っており、手を触れたあとは、なめくじが通った跡のような白い痕跡を残した)。
 デパートでは、開店前に掃除をすませ、ガラスの汚れもスプレーのガラス磨きを使う。しかし、たいていの銀座の小売店は、開店時間になってからドアを開け放し、ぬれ雑巾と乾いた雑巾で掃除をしていた。ぬれた雑巾でガラスの表面をふき、そのあとから乾いた雑巾でぬぐってやると、ガラスはぴかぴかに光る。
 店内は、床の絨毯を掃除機で掃除する。これは女性でもできる(この表現は差別ではありませんよ)。あとは表のタイルとレンガの歩道の掃除だが、これは一番下っ端の役目といえど、いくら下っ端でも女性にはさせられないから、ときには役職者でも長靴をはいてモップとデッキブラシとホースを用意し、水を流してきれいにデッキブラシでこすり、モップでふきとる。
 これで開店準備はおわるわけだが、ただ一人、掃除に手を貸さないで、マイペースで貴金属を並べている人がいる。砂糖部長だ。
 部長は、最初にきて店の鍵をあける係で(店長、次長の番もあった)、金庫をひらき、貴金属のはいった缶をとりだす。そして、おもむろに飾りはじめる。指輪をケースに並べ、ネックレスやブローチや、その他いろんな宝飾品をセットする。機嫌のいいときは、鼻歌がきこえる。たいていは、となりのみよちゃんじゃないでしょか、である。
 その日も部長がまだ貴金属を並べていると、「砂糖君、おはよう」といって小金井のH氏がはいってこられた。
「淑女、掃除中わるいけんど、お茶あ、たのまあ」
 H氏は、そう声をかけて椅子に腰掛けられた。砂糖部長は、またタバコかと警戒の色で、あいまいに笑っている。そこに、渋谷鶯谷町のT氏がみえられた。
「おはようございます。あ、砂糖さん、こないだのスポーツシャツ、もう一度見にきました」
 砂糖部長は、ぼくに飾りかけの貴金属のあとを飾っておけと眼で合図して、シャツのケースの向こうにまわった。そして、スポーツシャツをひろげてT氏に見せていると、お茶を待っていたはずのH氏が立ち上がって、「砂糖君よお、ぼくにこっちのシャツ見せてくんないかねえ」と声をかけた。部長が、あわててシャツを出そうとすると、いままで相手をしてもらっていたT氏の顔が急に曇った。部長は、シャツをH氏の前にひろげると、すぐにT氏のところに戻ってきた。T氏の顔がまた晴れた。
 目の前にシャツだけひろげられたH氏が、今度は憮然としてT氏を眺めている。そうして、「砂糖君、もう一枚、こっちのも見せてくんろ」と部長にいった。部長はT氏の顔色をうかがいながら、そろりそろりとH氏の指さすシャツを引っ張りだして、ひろげて見せた。半分泣きそうな顔をしている。むっとしたT氏が、反撃に出た。「砂糖さん、もう一枚、違うのを選んでください」
 それからは、砂糖部長をはさんで二人とも、あれを見せろ、これを出せ、といって、さながら子どもがおもちゃを取り合うような按配だった。部長がすがるような眼をしてぼくを見た。多くの場合、部下のだれかが手伝いにはいってどちらかのお相手をするのだが、こう部長を取り合っていてはそれもできない。
 しばらくして、ようやく落ち着くと、引っ張りだしたシャツでケースの上は山のようになった。先にT氏がぼくにまで愛想をふりまいて帰って行かれ、お茶を飲みおえておもむろに立ち上がったH氏が、ケースの上を見てつぶやかれた。
「砂糖君、なんだかきみんところは、ずいぶん散らかっているねえ」