鴬谷のT氏

 むかし、といってもずいぶん昔、ぼくが子どものころ、NHKテレビで「事件記者」というドラマを放映していた。
 事件が鴬谷で起こって、各社の警視庁詰めの記者たちはいっせいに上野へ走った。ひとり、いつも三枚目の狂言まわしの役どころの記者がいて、もたもた記者クラブにもどってきたところ、他社のキャップがちょっとしたヒントをあたえてくれて、あわてて鴬谷へ向かい、みごとスクープをものにする、という筋書きだった。鴬谷は鴬谷でも、そこは渋谷の鴬谷だったのである。渋谷にも鴬谷という地名があることを、ぼくはそのとき知って、ずっと記憶に残っていた(携帯電話なんかもちろんない時代だから、キャップは事件現場が上野ではなく渋谷だとひらめいても部下に連絡のしようがない。せっかくの特ダネを無駄にできないのが新聞記者根性で、たとえ他社の記者であっても特ダネにならないよりなったほうがいい、と考えたのだろう、と子どものぼくは考えた。記者は山田吾一で、キャップは永井智雄だったとおもう)。
 渋谷鴬谷町のT氏は、土地持ちのお大尽だった。すでにご隠居だったから、暇をもてあまして、毎日のように銀座にみえる。シャッターが上がると、しゃがんでのぞくようにして、待ちくたびれたT氏がそこにいらしたこともあった。近くのビル(ソニー通りのエスコフィエのビル)の6階に事務所はあったのだが、ある日、朝の会議が長引いていると、「守衛さんから、ここに事務所があるときいてきました」といって、T氏がドアをノックしたことがある。あわてて会議を切り上げて、その日は掃除もそこそこに開店したのだった。
 ぼくは入社してしばらくのあいだ使いものにならなかったので、おもにドアのそばに立って、いらしたお客様のためにドアをあけることに専念した。お客様がみえると、ドアをさっとあけて、いらっしゃいませ、と声をかける。これで店内の先輩社員たちがいち早く接客態勢がとれれば、とおもった(同時に入社した有金くんは、もっぱら車で配達の日々をすごしていた)。
 T氏は、いらっしゃいませ、と声をかけても、おはようございます、と挨拶しても、眼鏡の奥の埴輪のスリットのような眼の端でちらとぼくを見るだけで、すこしも返事をしてくれなかった。そして、砂糖部長のところへ行くと、うれしそうに世間話をはじめるのだった。
 こういう種類の仕事は、年季がものをいう。はやく年をとって、深く馴染まなければ、本当の商売にはつながらない。といっても、すぐに年はとれないし、ぼくは年より若く見えたから(6歳下の有金君と外商に行ったとき、どっちが年上だい、とお客様にきかれたくらい)、よけいたよりなくおもわれたようだ。いや、実際、たよりないことこの上なかった。
 3カ月くらいたったある日、ドアをあけたぼくが、いらっしゃいませ、といって頭を上げると、目の前にT氏が立っていた。背が低く、丸いがっしりした体格で、短く刈り上げた頭に、金縁の眼鏡をかけている。ぼくは、ぽかんとした顔をしたかもしれない。
「あなた、しゃれたネクタイをしてますね。砂糖さんの下で一所懸命おやんなさい。いい店員さんになれますよ」
 そういってすぐに砂糖部長のところに行くと、「彼の名前は?」とたずねられた。
 次にみえたとき、T氏はぼくに、学生のころからお世話になっているんですよ、といって砂糖部長をふりかえった。
「砂糖さんも若かったが、ここの店員さんはみんな威張っていてね。そりゃあ、よそに舶来品なんてまったく置いてなかったんだから、買えるものなら買ってみろ、という顔してましたね。わたしなんざ、たまにのぞかしてもらっても、高くて手が出ないでしょ。みなさん、買えないってよくわかってらして、ふん、という態度でしたよ。また、ほしいものがたくさん揃ってたんだな。いまにお金を稼げるようになったら、みんな買い占めようとおもったもんですよ」
 T氏はそうやって買い求めたお気に入りの品を、愛着があって古くなっても手放せない、といわれた。そして、そのとおり、ぼろぼろになったコートとか、ぐずぐずのバッグを持ってこられて、いまでいうリフォームを希望された。
「これを見てください。あなた、アクアスキュータムが入荷したときの、最初のレインコートですよ。昔のものは、ほら、生地が違う。ずいぶん、楽しませてくれたんだ。かわいくて、とても捨てる気になりません。破れたところを補修して、袖口なんか短くたってかまいませんから、直してやってくださいな」
 コートは、まるでパッチワークのようになったが、おどろいたことに、T氏は恥じる気配もなく銀座に着てこられた。
 「Tさんはちゃんと新しいものも買われるのに、どうしてあんな雑巾のようなコートを着るのでしょうか?」 
 ぼくは、砂糖部長にきいてみた。
「きみもTさんくらいの財産家になったら、きっと平気になれるよ」