H氏と煙草

 武蔵小金井のお大尽のH氏は、タバコを集めるのが趣味で、いまでもあるのかどうか、ソニービルのなかにあったタバコ屋さんにたびたび買い物にみえた。おもに輸入の外国タバコで、一人当たり何個しか買えないというタバコもあった。
 割当があると、いかにお大尽でも、まとめて入手するのはむずかしい。結局、人員を動員して、大勢ですこしずつ買わざるを得ない。シャッターが上がると、そこにH氏はすでに立っておられた。
「砂糖君よう。あんたんところは、はじまるのがおそいねえ」
 先代の林屋正蔵さんのような口調でおっしゃる。
 なに、別におそいわけではなくて、じっとしていられなくて小金井くんだりから早朝の銀座に出てこられて、どこもあいていないからただそのへんを行ったり来たりしておられたH氏がわるいのである。しかし、靴の底をなめろとお客様にいわれたらなめかねない部長のことである。ぎょろりと人の顔を睨みつけて、おまえがわるい、といわんばかりで、こういう場合ぺーぺーとしては身の置き所に窮する。しかし、店の鍵を持っているのは、責任者の部長ではないか。
「砂糖君。きみんとこの若い衆にそういって、これこれのタバコを一人頭、売ってもらえるだけ買わせてくれろ」
 H氏は、そういって、ワニの札入れから1万円札を何枚か出すと、掃除をはじめかけた社員全員(といっても、朝は4〜5人しかいないけれど)に1枚ずつ渡した。いっぺんに買いに行っては開店の準備がはかどらないから、順番に一人ずつソニービルまで出かけて行った。それならなにも、1万円ずつ渡さずに、戻った人のおつり銭を引き続き使えばよさそうなものだが、そこがお大尽のお大尽たるゆえんで、もし相手がなにか勘違いして余計に売ってくれたとき、お金が不足しては千載一遇のチャンスをみすみす逃がしてしまう、と考えをめぐらしたに違いない。
 ぼくは一番に行かされて、なぜか千載一遇にめぐりあってしまったようである。いわれた銘柄を1万円分、購入してきた。H氏にそう声をかけたが、砂糖部長と話し込んで、聞こえないようにみえた。返事を待たずに有金君が出かけた。これも難なく1万円分購入できた。つぎつぎに行っては、1万円分買って戻ってきた。こうして、一通りすんでしまうと、話の途切れたH氏は、まわりを満足そうに見まわして、
「淑女、わるいけんどよお、お茶あ、ごっつおうしてくれろ」
 女子社員を呼ぶときは、かならず淑女、男子社員は、きみ、だった。
 お茶を飲みながら、ふとケースの上に積み重なったタバコの山に気づいて、あわててお茶をこぼされた。
「あちちち。なんだこのタバコの山は?」
「買えるだけ買え、とおっしゃたので、1万円で買えるだけ買ってまいりました」
「みんなか?」
「はい」
「一人頭何個てえいうから、そのつもりで余計にほしくなったけんど、こんなにはいらないよ。第一、こんなに吸ったら、けつから煙りが出て困るよ。3分の1残して、あとは返品してもらおう。なあ、砂糖君よお」
「は?」
「まだ行ってないのは、きみだけだな?」