たこ焼きとサソリ

T建設の副社長だったM氏は、最後はその傍系のT道路の社長になった。ぼくがお会いしたときには、もう社長さんになっていて、なんだか暇そうでしょっちゅう銀座にやってこられた。
 みゆき通りにグリーンのジャガーを駐車されて、もちろん運転手付きだから、運転手さんをのこして昼食にいったり買い物をされたりした。社長というのは、ずいぶん暇な職業に見えた。
 松屋の裏通りに一茶庵という蕎麦屋があって、いまはそこの蕎麦がいちばんうまい、とぽつんといわれたりするので、蕎麦ならぼくらにも食べに行けないこともないから、早速行ってみたりした。確かにそのときの一茶庵はおいしかった。いろいろ食べ歩かれているから、そのときどきのおいしいところをよくご存じだった。しかし、一番の好物は、なんといっても当時フジヤ・マツムラソニー通り側の角に店を出していた屋台のたこ焼きだった。夕方、これからバーかクラブに遊びにゆかれる前に、たこ焼きの屋台に寄ってたこ焼きを買われるのだった。注文してから焼き上がるまでのあいだ、店に来られて待ちながら、いわゆる馬鹿話をされるのだった。たこ焼きは、これから行かれるお店の女性たちも好物で、おれよりたこ焼きを待ってやがるんだ、といって笑われた。
 M氏はあるとき、おれはじつは学歴はないんだ、とまじめな口調でおっしゃった。T建設の前身のO土木の時代に、会社の金沢の寮に入れられて、そこで優秀な北大の土木科出身の社員たちに毎晩交替で勉強を教わった。なぜか北大出の人が多くて、みんな同じ教育を受けてきたから、教えてもらうことによどみがなかった。かわりばんこに2年間教わった。だから、4年で卒業する大学の過程を2年で卒業してしまったことになる。卒業証書はないけれど、連中には感謝しているんだ、そこいらの学卒なんか足もとにも寄れないくらいにしてもらったよ、とおっしゃって懐かしそうな表情をされた。
 ご本人のいう馬鹿話というのは、たとえば海外で起きた話なんかだった。
 中国かモンゴルか、サソリが出てくるからサソリのいるほうへ行かれたときに、朝起きて、革の長靴をはこうとしたらなにかが足の指に触れたので、ごみかとおもって手を入れた。とたんに人さし指の先をひどく刺された。あわてて靴を脱いで逆さにふってみると、ぽとんとサソリが落ちてきた。現地の人があわてて踏みつぶしたが、刺された箇所はみるみる紫色に腫れ上がった。痛みが激しくて、冷や汗が出て、めまいがした。そのとき、現地の人は外になにかを買いに出た。痛くて、熱も出て、唸っていると、現地の人は籠をかかえてもどってきた。たくさんの玉子が入っている。現地の人は、ひとつ取ると、指が入るほどの穴をあけて、M氏の刺された指をそのなかにつっこませた。黄身がやぶれて指をくるんだ。黄身が温まると捨てて、つぎの玉子に穴をあけた。それを繰り返し繰り返しして、大きな籠の玉子を全部割った。玉子が高価な時代の話である。指の腫れはおさまって、刺された傷だけがのこった。現地の人の友情と思い出も、指先にのこった。だから、おれは、いまでも靴をはくときは、かならず逆さにしてなかを確かめてからはくことにしているんだよ。
 店のドアがあいて、たこ焼き屋のおにいさんが顔を出す。お待ちどうさまでした。ビニールの袋にたこ焼のパックがずしりと重い。あわてて駆けつける運転手さんに持たせてM氏は、さよなら、と帰っていかれる。おにいさんに、あの袋にどれだけ入っていたの、ときいてみる。ひとパック5本で、10パック。いつもそうなんだ。ホステスさんが喜ぶんだって。ぼくは、靴をはいたらたこがはいっていたら、ちょっと気持わるいなとおもった。