クリーニングと本業の話

 ワイシャツの場合、意外な具合にその良さが伝わって、ご注文をいただくことがある。
 いまはわざわざ集荷にくるクリーニング屋さんが少なくなったが、以前はご用聞きにバイクや車で、近場なら自転車でまわってくれるクリーニング屋さんがたくさんあった。昨今、受け付けだけは自分の家でして、洗濯からアイロン掛けまですべて工場まかせのクリーニング屋ばかりで、また値段がばかに安いから、ずいぶん繁盛しているように見える。
 Y氏の奥様がなくなったときに(このときはもう、フジヤ・マツムラはなかったのですが)、千日谷会堂の葬儀に参列したが、お葬式ばかり重なってワイシャツが間に合わなくなって、いつもの集荷に寄ってくれるクリーニング屋さんでは時間がかかりすぎて(礼装用に白のシャツは3枚用意してあるが、まさかそれが足りなくなるほどたてつづけにお弔いに遭遇するとは、おもわないではありませんか)、仕方なく近所のなんとかチェーンに頼んだが、これがじつに安価だった。しかも大して日を経ずして出来上がり、間に合ったのを大いに喜んで、しかし好意を寄せていた方がなくなられたのだから大いに悲しんで、献花の列にならんだ。
 ならんだときには、ぼくはすでに不機嫌だった。なんてひどいクリーニングだったことか。衿にしわが寄り、カフスの付け根にもちりめんじわでいっぱいだった。おそらく、ここに居並んだ方で、失礼だがぼく以上に上等のシャツを着ている人は、Y氏を除いていないだろうとおもった(Y氏のシャツもぼくの職人がお仕立てしていました)。おもったはいいが、その自慢のシャツの状態がじつにひどい。となりの紳士の、安物だがきちんとアイロンのかかったワイシャツのほうが、何倍か良く見えた。オーダーシャツの仕事をしていながら、そのへんの既製のシャツよりみすぼらしいシャツを着るほど情けないことはない。ぼくはへたくそなクリーニング屋と、ついうっかりそんなところに出さざるを得なくなったしみったれの自分に腹を立てて(白は冠婚葬祭しか着なくても、やはり半ダースは用意しておくべきでした)、もうこうなったら何人死んだって困らないくらい礼装用のシャツを作ってやるぞ、と家に帰ってカミさん相手に息まいた。
 杉並のK氏のお嬢様(といっても、もうご年配でした)から銀座の店にお尋ねがあったのは、出入りのクリーニング屋さんがフジヤ・マツムラのシャツの出来が良いとほめてくれたからだ。そのクリーニング屋さんは、やはり車でご用聞きにまわっている方で、同じ杉並にお住まいのM氏(ほら、サソリにさされた)のワイシャツに感心していたらしく、K氏がどこか良いシャツ屋を知らないかとおききになったとき、即座にそのシャツの衿に付いていたマークの名前を上げたのだった。その名前を電話局で調べてK氏のお嬢様が電話をくださったという次第だ。
 K氏の好みは簡単だった。海の底のように濃いブルーのシャツ。ぼくは、そんな色の生地を用意して、杉並のお宅にうかがった。K氏はもう90になるといわれた。骨太で上背もあり、背筋もぴんとしていて、とても80歳を越えているようには見えなかった。浴衣姿でいらしたから、そんな季節だったのだろう。「寸法を計りますので、浴衣をお脱ぎください」とお願いした。K氏は、「いやだ」とおっしゃった。「あとで文句はいわないから、構わないからこの上から寸法を計れ」といわれた。
 仕方なく、ぼくは浴衣の上から寸法を採ったが、べつにK氏は、へそを曲げているのでもなさそうだった。
 シャツが出来上がって、お嬢様(しつこいけれど、お父上が90歳なのだから、もう十分ご年配なんです)に連絡をすると、「父の会社が銀座にありますから、そちらに届けてください」とおっしゃった。K氏は銀座通りのS製薬の相談役だったのだ。重役ばかりが部屋を連ねている階に上がってゆくと、秘書の方が出迎えてくれた。K氏は先日と違い、なんだか上機嫌だった。早速、着替えるといって新しいシャツに袖を通すと、満足そうに鏡を見た。
「なんで浴衣の上から計ってこんなにうまくできたのかね」とK氏は尋ねられた。
「それは、職人と相談して、ほかの人に浴衣を着せて計ったからです。それで、浴衣を着た場合にくらべて脱いだときは、どれくらいゆとりを削ったらいいのか工夫しました」とぼくは正直に答えた。K氏は、「べつにきみを試したわけではないが、そういう頭の働かせ方はえらい。私は、ぶかぶかなら、それも仕方がないとおもっていたよ、そうなっても自業自得だ。なんであのとき、浴衣を脱ぎたくなかったのか、あとで考えてみても腑に落ちない。娘に、きみがかわいそうだったと、さんざ嫌みをいわれてね、本当にすまなかった」とおっしゃった。
 ちょうど、となりの部屋から、やはりK氏と同年配の紳士が、「Kさんよー、暇で退屈だなー」といってK氏をのぞきにこられた。そして、K氏の海の底のように深いブルーのシャツに気づくと、「ところでKさんは、そんなロカビリーみたいなシャツを着て、なんだな、まだもてようって魂胆か」といった。