たこ焼き屋

 みゆき通りとソニー通りの角、ちょうどフジヤ・マツムラのわきに屋台のたこ焼き屋さんは出ていた。たこ八という屋号だった。
 たこ焼き屋さんをやっていたのは、種子島から上京した兄弟だった。みんなでたしか4人いたとおもう。夕方、一番上の兄貴が屋台を引いてやってきて、店をひらいた。京橋のほうに家があるときいたから、きっと京橋から屋台を引いてきたのだろう。
 水は向かいの魚治というお鮨屋さんの外の水道からもらっていたから清潔だった。トイレはフジヤ・マツムラのビルの守衛さんの部屋のわきのトイレを借りていたから、これも安心だった。たいていの屋台は、水の出所とトイレの始末を考えたら、とても安閑として食べるわけにはいかない。
 おもってもごらんなさい、ラーメン屋さんの屋台には水道なんてついていないんですよ。それを、何杯売れるか知りませんが、人が食べるたびに器を洗って、つぎの人に使うんですよ。裏にまわってよくみると、大きなバケツに入った水にただドンブリをつけちゃうんです。このさきは、気持わるいからやめましょう。
 一番上の兄貴は寒がりで(顔をあわせると、「今夜は寒いんだってね、いやになっちゃうよー」と必死に訴えた)、冬になるとひとりだけ種子島に帰った。だから、春になって、だいぶ暖かくなるまでは、夕方も、次男が屋台を引いてきた。もう1台、新橋寄りに屋台を出していたが、この次男は、本当はそちらの係だったのだとおもう。1台に2人ずつ組んで、交替で商売していたのだろう。そのうちの1人が寒がりで、相棒の兄弟のことを考えないで島へ帰ってしまうというのが、おかしい。仕方なく3人でローテーションを組んで、冬場だけしのいでいたのだろう。種子島では、実家はお菓子屋さんだといっていたから、うちに帰って、冬のあいだだけ店番していたのだろうか。
 ぼくは、友だちと銀座で会うと、かならず帰りがけにこの屋台に寄って、たこ焼きを食べた。ひと皿ずつ手に持って(ひと串に3個ささっているのが、5本のっていた)、はふはふと食べた。いままで飲んだり食べたりしていたのに、ここのたこ焼きは不思議にきれいに食べられた。その上、ひと串おまけしてくれるから、よけい残すわけにはいかない。ま、若かったということなのでしょうね。
「よそのなんかと中身がちがうよー」と一番上の兄貴はいった。たしかに、ほかで食べるたこ焼きの味とはぜんぜんちがっていた。
「なにが入ってるのさ?」とぼくはきいた。
「えびのすり身だとか、たまねぎのすったのとか、かくし味に、いえないものまで入っているさー」
「なんでいえないの?」
「この業界もきびしいからねー。企業秘密というやつさー」
 後年、綿貫君と(そのときはもう道路交通法で銀座の屋台が閉め出されて、あのたこ八の屋台も銀座から消えてしまっていた)、たこ焼き屋を副業でやろうか、と話したことがある。あのたこ八のたこ焼きなら、きっと蔵が建つぞ。屋台がいけなければ、小さなお店で売ればいい。
「お金はぼくが出しますから、タカシマさんにまかせますよ」と、綿貫君はいった。いままで、たこ八のたこ焼きの話題でひとしきりもりあがっていたせいで、綿貫くんは気前よくそんな提案をしたのだった。それからしばらく、ふたりでその計画に熱中して大笑いしてから、「やはり、駄目だね」とぼくはいった。「京橋というだけでたこ八の家までは知らないもの。肝心のたこ焼きのうまさの秘密がわからない」。
 幻のレシピといったらいいのだろうか。あんなに、毎日のように食べていたのに。