エルドールのケーキ

 ソニー通りを新橋の方向に、みゆき通りを越していった次の角に、昔、エルドールというケーキ屋さんがあった。30年近く前にショートケーキが600円もした。銀座でいちばん高いケーキ屋さんだった。しかも、じつにおいしかった。
 不二家なんか(といったら叱られるが)その3分の1くらいの値段で、しかし味は3分の1にもみたなかった。不二家はいつでも食べられるが、エルドールはボーナスのときでもなけりゃ、とてもじゃないが口に入らなかった。いや、嘘はいけないな、ボーナスが出ても、もったいなくてエルドールは食べなかった。
 ときどき、お客様からお小遣いをいただくことがあった。ずいぶん高額の場合もあった。それは、なにかのお礼であって、本当はそんな必要なんかないのに、出された手前、受け取らないと先方に恥をかかすことになりかねないので、有難く頂戴し社員のおやつを購入した。それなら、自分のポケットに入れるより公平だし、みんなもその方に素直に感謝できる。
 で、せっかくこんなにいただいたのだから、ここはひとつ、ふだん食べたくっても食べられないものにしよう、ということになった。当然、エルドールである。
 とくに、おやつを3時にとるなんて習慣はなかったが、いただきものがあったりしたときは、交替で店の裏の試着室をかねた小部屋でお茶にした。なにしろ商売をしていると、いつ何時お客様がみえるかわからないから、のんびりなんかしてられない。ケーキでも饅頭でもひと呑みにした。
 いただいた金額で、店と事務所の人数分のケーキがちょうど買えた(店だけで10人、事務所はその半分)。やはりこれは、エルドールにしろということだ。それで、さっそく女子社員のひとりがお使いにいった。このチーフは、ふだんは腰が重いのに、こういうときだけはしっこかった。
 その日の午後は、なんだか店じゅうが浮かれていた。エルドールのケーキは、絶品だった。しかし、4時になってレジを締めにきた事務所の銀河さんは、「ごちそうさま。とてもおいしかったわ」といったわりには、浮かない顔をしていた。店長が、銀河さんに、どうかしたの、とたずねた。
「おやつですよ、店から、といって社長にもケーキ出したのね。社長も、余禄が入ってよかったねって食べたんだけど、あまりにおいしいでしょ。これどこのケーキってきくのよ。エルドールっていったら、なんだ! って怒り出したの」
「なんで怒ることがあるのさ」と、店長がきいた。
 銀河さんは、仏頂面のまま、レジの清算をおえると、重い口調でいった。
「それがね、不二家だったら、もっと大きくて、3回食べられるじゃないかって」