外村さん

 倉庫のおじさんがいない時期に、社長が通りを歩いていたら、むこうから外村さんが歩いてきた。
 外村さんはもう、70歳くらいになっていたのに、童顔で、おかっぱ頭のウド鈴木みたいな顔で、いつもヘラヘラ笑っていた。
「外村さん、いま、なにやってるの?」
 と、社長がきいた。
「なにって、することがないから、毎日、茅ヶ崎から出てきて、銀座をブラブラしているんです」
 と、外村さんが答えた。
 書くとこれだけのことだが、実際には、外村さんは耳が遠いから、顔をしかめて、何回も、えっ?
えっ? と耳に手をあててきき返し、「ちょっと待って、補聴器のスイッチ入れるから」といって耳に入っている小型の補聴器のスイッチにモタモタと指をかけ、それをイライラ眺めて待っている社長も「なんだ、だったらはじめからスイッチ入れればいいじゃないか」と、口のなかでブツブツいったりして、仕切り直しをしてようやく話が通じたのだった。
 外村さんは、ぼくや有金君が入社するずっと前に、梱包のおじさんとして倉庫にいたことがあった。そのころは、まだ多少若かったから、荷造りなんかも苦にならなかったようだが、「ヒヒイー、出戻っちゃったよ」といって再入社してみると、体力的に重い荷物は作れないし、重い品物もお届けに行けなかった。とはいっても、だったらべつにぼくらがやればいいだけのことで(大きな段ボール箱に一杯商品を詰めて、それを何個も台車に積んで運ぶとき、外村さんは気を使ってエレベーターのボタンを押してくれたり、台車の進む先の歩行者に注意をしてくれたりした)、外村さんには軽いお届けとか荷造りをやってもらい、それはそれで大助かりだった。
 外村さんは、久しぶりに見る店長や次長が、えらくなっているのがおかしいようだった。
「鎌崎のやつ、あんなにきれいに禿げちゃって、ヒーッヒッヒ」とか、「釜本は太って、ずいぶんえばってるじゃないか、ヒーイヒヒヒ」とか、きこえないところで笑った。「あれは、年をとると自然とえらくなってしまうものなのかねえ。それとも上がいなくなったから、ところ天式にえらくなったのか?」(ぼくみたいに、なんとなく課長になってしまった社員は、こういう場合、どんな顔をしたらいいのよ?)。
 西新宿のD工業からハンドバッグの進物が入った。それで、包装して12箱、お届けすることになったのだが、こういうときにかぎって車が出払ってしまっている。仕方なく、外村さんとぼくで手分けして持って行くことになった。大袋に1箱しか入らないから、片方に3つずつ、両手に6袋さげて、地下鉄で運ぶことにした。銀座の丸の内線まではすぐだから、難なく車内に席をとって、ヒーッヒッヒと怪しく笑う外村さんは目立ったけれど、無事に新宿駅に着いた。
 しかし、チビの外村さんには、手提げ袋の丈が長すぎて、多少持ち上げ気味にしないと底が地面にすってしまい、肘を曲げて持たなくてはならないので、しばらく歩くとへばってしまった。
「ヒーッ、だめだ、とてもじゃないが重くって、もう歩けない」
「じゃあ、2つよこしなよ、ぼくが持つから」
 外村さんは、よし、これなら軽くなってだいじょうぶだ、といって歩きだした。歩きだしたけれど、またすこし進んで、ヒーッ、だめだ、といった。
「しょうがないなあ、おやじ。貸してごらんよ」
 といって、ぼくはもう2袋、外村さんから受け取った。
 外村さんは、両手にひとつずつ袋をさげて、ヒッヒッヒ、これなら快適だ、といった。ところが、片手に5箱、両手で10箱分の重量というのは、なかなかばかにならなくて、持った拍子はなんともなかったが、歩くにしたがって重さが増して、握力はきかなくなるし、肩はいたくなるしで、ヒーッ、といいたくなった。おまけに、軽くなった外村さんは、さっきとうってかわって、元気でトットコ歩いて行っちゃうのである。そのあとから、ヨタヨタしながらついて行くと、汗が頭から流れて目に落ちてくる。ぬぐいたくても手がふさがっている。目に入りそうな汗をパチパチまばたきしてさえぎって、声に出さずに、ヒーッと叫びながら、もう放り出してしまいたい、とおもいつつひたすら歩いた。さいわい指もちぎれず、肩が抜ける前に住友ビルにたどりついた。
 帰りにないしょで喫茶店でコーヒーを飲んだ。
「お使いに出てコーヒー飲むのなんかはじめてだから、帰ってもいっちゃだめだよ」
 ぼくは、外村さんに釘をさした。実際、ぼくはお使いに行ってどこかに寄ることなんかなかったし、用事をすませてどれだけ速やかに帰社できるか、そのほうが大切だった。会社はぼくを信用してくれているのであって、いい子ぶるわけではないが、見えないところで信用を裏切ることはできない。きょうは、はじめていっしょにお届けにきた記念のつもりだった。
「わかっているよ。おれだって、お使いに行って、どこにも寄らないよ」
 外村さんは、ウド鈴木の顔で笑った。
「じつは、おれ、かあちゃんまたもらったんだ」
「へえ、再婚したの?」
「ヒヒヒ、茶飲み友だちみたいなもんだ、70過ぎると」
「よかったね、いい人がいて」
「きょうはわるかったな、足手まといになって。ゆうべ、がんばらなけりゃあ、もうちょっと荷物持てたんだけど、イーッヒッヒ」
 なにが、イーッヒッヒだよ。