矢村君のこと その9

 万年筆が2本、立て続けに壊れた。いくら大事に使っていても、すこしずつくたびれてゆくのだろう、経年変化という言葉が示すように。
 ペリカンのMK30という万年筆を、雑誌で梅田晴夫という人がほめているのを読んで、さっそく購入した。1970年のことである。そのとき、こんなに書きよい万年筆もペン先がすり減ったらオシャカだな、とふとおもって、あわててもう1本、スペア用に購入した。まさか、ペン先がすり減るより先に、軸にヒビが入るとはおもってもみなかった。
 いま、あって当たり前のものは、今後もずっとあるものだとぼくらはおもっている。すくなくとも、ぼくはおもっている。だから、もう1本あってよかったな、とおもった数日後に、2本目の万年筆からもインキがしみ出して、気づいてひろげた手の指に、ロイヤルブルーの色があざやかに染み付いているのを見たときは、すこしボーッとしてしまった。30数年という年月は、たしかに短い時間ではない。
 しかし、とにかく、万年筆をなんとかしなくてはならない。矢村海彦君は、ちょっとした万年筆の蒐集家だから、さっそく彼に1本無心することにした。
「小説を書くから、万年筆をください」
 彼は、明日の昼休みに、銀座8丁目のランブルで会いましょう、といった。
 このランブルは、火事になった5丁目のらんぶる(註、2006−5−21「らんぶるの火事」参照)とはまったく関係ない。だから、コーヒーもうまい。
 テーブルにつくとすぐに、
「はい、これ」
 といって、彼は大振りの万年筆を差し出した。
「小説を書く、というセリフは、もう耳にタコです。これで、タマには本気を出してください」
 ズバリと痛いところを突かれたので、ぼくは、キャインキャイン、と犬の真似をした。
 矢村君は、しばらく会わないうちに、すこしスマートになったように見えた。
「なんだか痩せたんじゃない?」
「ええ、ちょっと。いま、油抜きの食事でダイエットしてるんです」
「成人病が怖いから?」
「そう、ですね。怖いとおもう年齢になってきたわけです」
 矢村君がくれたのは、モンブランの万年筆アガサ・クリスティーだった(1993年発売)。
 スターリングシルバーのクリップが蛇をかたどっていて、目のところに小粒のルビーがはまっており、18Kのペン先にも蛇の彫刻がある。キャップに小さく、アガサ・クリスティーのサインが白く彫られている。同じくキャップの隅に、小さく「25694/30000」と彫られているのは、世界限定3万本のうち、この万年筆が25694番目のものであることを表している。定価は8万5千円。いまではプレミアがついて、その3倍の値段で取引されている(アガサ・クリスティーの1年前に出たヘミングウェイは、限定2万本、定価8万円。人気があって、定価の5倍もする)。
 あとになって、矢村君は、その万年筆をくれた理由を話してくれた。
「あのとき、ぼく、なぜか痩せましてね、急激に。心配でしたよ、普通にしていて痩せたんですから。それで、怖くて医者にも診せられないでいたんですけど、どう考えてもわるい病気のようにおもえたんです、それも手遅れの」
 矢村君は、人知れず悩んで、あきらめて静かに死期を迎えようとしたらしい(油抜きダイエットなんてごまかして)。ところが、ぼくにアガサ・クリスティーをくれたあとで、おっかなびっくり検査を受けてみたら、どこもわるくないことがアッサリと判明した。
「あの万年筆は、形見のつもりで差し上げました」
「死なないんじゃあ返そうか?」
「いいですよ。すこし早いですけど、形見です」
 あくまでも形見にしたいらしい。しばらく考えてから、いったらまずいかな、とおもいながら口に出した。
「あのさ、形見なら、ヘミングウェイのほうもよろしく」