矢村君のこと その8
矢村君は、商船三井でアルバイトしていたとき、好意を寄せていた年上の美人社員とデートをすることになった。
ふたりは、西新宿の高層ホテルのレストランで食事をした。
高層階の窓際の席だった。
メニューもワインも彼が選んだ。
頭の回転の速い女性で、とても話が弾んだ。
食事が済んでも別れ難かった。
同じホテルのバーに移った。
女性の頬がほんのりと朱に染まっていた。
ぽってりとした唇がなまめかしかった。
「純ちゃん」
と、彼は呼びかけた(純ちゃん、と、彼はふだんからその年上の女性を呼んでいた)。
「純ちゃん、キスしてもいい?」
アルコールが彼をロマンチックな気分にしていた。
女性はカクテルグラスからサクランボをつまみ上げると、彼の口に押し込んだ。そして、ちょっと頬笑むと、
「だめよ。それは今夜のメニューにはないわ」
といった。
(つづく)