課長になった頃 その1

 ぼくは週刊誌も月刊誌も読まないから、週刊新潮山口瞳先生のエッセイ「男性自身」もダイレクトに読んでいたわけではなかった。ときたま、お医者の待合室で、暇つぶしに手に取ることはあったけれど。たいてい、単行本になってから、ゆっくりと読むことにしていた(これはほかの作家も同様で、これまでで連載を読むのが愉しみだったのは、70年代の終わり頃、ブルータスに毎月載った景山民夫のエッセイだけしかない)。
 それは、矢村海彦君が、通りすがりに教えてくれたのかもしれない。ほかのだれかではなかったような気がする。
「瞳さんの姪の方、結婚しましたね。今週の『男性自身』に書いてありましたよ」
「ふーん」
 と、ぼくは複雑な顔をしたはずである。
 山口瞳先生の姪の新谷美智子さん(仮名)は、一時、フジヤ・マツムラの社員だった。山口先生の口ききなどではなく、ちゃんと社員募集に応募して合格したのである。
 荻馬場さんが、「山口先生の姪のひと、いいとこのお嬢さんね」といった。
 着ている洋服が全部オーダーだというのである。
「仕立てさせた洋服を着せているんだから、きっと親御さんがきちんとしているのね」
 新谷さんは、眼の病気で、以前つとめていた会社を辞めて、しばらく家でぶらぶらしていたといった。病気が快復すると、まだ、結婚するには早いような気もするし、もう一度おつとめしてみようかな、と考えるようになった。そんなときに、銀座の名前をよく知っている洋品店の募集が眼にはいった。叔父さんがときどきエッセイのなかに登場させる洋品店だった。叔父さんの馴染みのお店なら、なんだか安心のようにおもえた。それに、きれいそうなお仕事のようだし。
 箸が転んでもおかしい年齢がある。新谷さんは、明るくて、元気一杯で、キャピキャピしていた。清潔で、つやつやの肌で、石鹸のよいかおりがしていた。眼が大きく、頬もふっくらして、不二家のペコちゃんに似ていた。いつも、ねえねえ、といってだれかれをつかまえては、きゃあきゃあいって笑っていた。女学生がそのまま大人になったような、見ているだけで笑みがこぼれるような女性だった。若くて、健康で、溌剌という言葉がよく似合った。
「住まいは堀切ですけど、金八先生の堀切とは違うんですよ。堀切菖蒲園
金八先生の堀切がどうしたの」
「ドラマ見てないんですか。あの堀切って、ガラがわるいじゃないですか」
「駅はいっしょなの?」
「なんにも知らないんですね。堀切菖蒲園は、川を渡るんです」
「ふーん。それは、何線?」
「京成で通っているんですけど、いろいろ行き方があるんですね。いまみたいに、銀座線で上野に出て乗換えるてもいいし、JRで上野に行っても、もっと先の日暮里で乗換えてもいいんです。どれが一番楽しいかしら」
 まだ通勤定期を購入する前で、毎日乗り換えの駅を変えて、ためしているところだといった。ぼくがJRで王子まで帰ると知ると、じゃあ、わたしも上野までごいっしょしようかしら、といってJRに乗るようになった。神田までは荻馬場さんもいっしょだったが、荻馬場さんが降りてしまうと、ぼくはいつもドギマギした。新谷さんが、課長、課長、と連発したからだ。ぼくは課長になったばかりで、照れくさくて、会社内でも課長と呼ばれると、そのたびに「ガチョウが川を越そうとしたが(水は満々、流れは速い)」という歌をくちずさんだりした。
 そばで嬉々として話をする新谷さんが、もうけっして若いといえない年齢のぼくには、なんだかとってもまぶしかった。ぼくは眼をそらすと、ものわかりのいい叔父さんのように、吊り革につかまって窓外を眺めながら、うんうん、とただうなずいた。新谷さんは、やがて、日暮里で乗換えるようになった。
(つづく)