日本橋支店のあるできごと

  有金君は、日本橋高島屋の2階特選にあったフジヤ・マツムラコーナー(日本橋支店とよばれていた)の店長として、何年かのあいだ出向していた。そのうちに、彼は非常に優秀だったので、イタリアブランドのヘルノの総代理店にいつの間にか眼をつけられ、ヘッドハンティングされてしまった。ぼくらが同時に入社して9年目のことだった。
 日本橋に出向していても、週に一度はデパートが終わったあと、銀座の店に顔を出すことが義務づけられていたから、彼は浮かない顔をしてやってきた。おもに倉庫をのぞいて、日本橋高島屋の客層に向く商品を選び出すのが目的だったが、日頃から日本橋担当の事務の愛原さんがこまめに手配をしていたので、その必要はまったくなかった。
 本当に愛ちゃんはマメだった。入荷してきた商品をすぐに検品すると、目ぼしい品を選び出して即座に値札付けにまわし(値札つくり専門のおばさんがいた)、場合によっては自分で値札を付けて伝票を書きあげ、さっさと高島屋に納品してしまう。だから、まごまごしていると、ぜんぜん知らないうちに、ちゃっかりと売れ筋の商品が支店に並ぶことになった。「いま、日本橋に寄ってきたら、いいのが入っていたけど、こちらにはまだ出ていないのね」と、お客様から指摘されたりして、あわてることがあった。「愛原さん、駄目だよ、ぼくらが各店用に分けるまで、動かしちゃ駄目」とぼくは何度も注意したが、愛ちゃんはぼくらの眼をかすめて、有金君のためにせっせと売れ筋ばかり運び出した。
 ある日、ぼくは社長室によばれて、有金君から辞表が出されたことを知った。社長は、同期のぼくがなにも相談を受けていないのを知ると、不思議そうな顔をした。
「彼は、辞めてどうするんですか?」 と、逆にぼくが社長にたずねた。
 社長は、鷹揚そうに椅子の背もたれに深く身を沈めて、口もとに笑みをもらしながら、いった。
「なんでも、弟さんが調理師免許を持っているので、いっしょにレストランをひらくといっている。ずいぶん私も引き止めたんだが、どうにも決心が固いようだ」
 その晩、ぼくは有金君に電話をかけた。なんとも水くさいとおもった。
「ちがうんですよ」といって、有金君はくわしい経過を説明してくれた。「だけど、本当のことは社長にいっちゃあ駄目ですよ。残務整理に、あとひと月いてくれっていわれてますから、内緒にしてください」。
 しかし、秘密は意外なところからもれてしまった。日本橋高島屋に納品に行った問屋の担当者が、たまたま有金君のことを小耳にはさんだのだ。はさんだだけなら問題ないが、事務所に来たときこの人がポロリとしゃべってしまった。途中で、まずいと気づいて口をつぐんだが、もうおそかった。社長の形相が見るみる変わるのを、愛ちゃんはヤバイとおもいながら、頭を低くして見ていた。
「おかげで、ぼくの退職金、目減りして、5分の1しか支給されなかったんですよ。ひどいとおもいませんか」
 退職したあとで、有金君は、「なかなか退職金が払い込まれない」といって、電話でぼくにこぼしていた。それがやっと支払われてみると、なんともひどいことになっていた。
「ドジだなあ。ぼくにまで隠したのなら、なんで完璧を期さなかったの?」
「甘かったですね。社長のオーケーがとれたら、ほっとして、つい高島屋の人に話しちゃったんです。まさか、又聞きした人がいて、銀座に来てまでしゃべるとは、だれもおもわないじゃないですか」
 しかし、腹立ちまぎれに減らすというのも、凄い。おかげで、銀座で豪遊する約束が、フイになった。
 送別会の夜、ぼくは「ダンシング・オールナイト」をカラオケでうたった。この歌が流行ったあとの頃で、ぼくはこの歌なら辛うじて知っていた。有金君と愛ちゃんがフロアに出て踊った。愛ちゃんは結婚して旦那さんがあったが、日本橋担当で有金君の売り上げ促進に協力するうちに、いつの間にか熱くフィーバーして、二人は疑似恋愛におちいっていたようで、最後の夜におもわず抱き合ってダンスしてしまったのだ。愛ちゃんは涙を流していた。ぼくは、歌が終わっては困るような気がして、何度もくり返して「ダンシング・オールナイト」をうたった。