僧玄奘の話し

益州とは、中国西南区四川省蜀の称である。
 唐の時代、ここに空恵寺という寺があり、のちに三蔵法師とたたえられる僧玄奘が、病めるインド僧とここで出会い、看病のお礼に短い経を口授された。
 玄奘は、真摯に仏教の勉強に励んでいたが、瑜伽論にどうしても理解できないところがあり、それをうまく説明できる先輩も、解説書のたぐいも見当たらなかった。この上は、直接インドに赴いて、疑問を解決する以外には方法はなさそうだった。 しかし、当時は、皇帝の許可なく旅に出ることは禁止されており、許可がおりる見込みもまずなかった。
 玄奘は、インド僧に、インドのことをきいてみた。それから、なにげなく、インドへ至る道のことをたずねてみた。インドへの道のりは、容易ではなさそうだった。しかも玄奘は、本格的な旅の準備を調えることができるほど、余裕のある身ではなかった。たぶん、身一つで出発せざるをえないだろう。玄奘は、そう考えていた。いまでいうところの、デイパックを背負ったヒッチハイカー。玄奘は、さしづめ、そんなところだった。
 ふと、玄奘はインド僧に眼をおとした。僧がなにやら薄笑いを浮かべているのに気づいたからだ。
「きみは、インドへ行こうと考えているのか」
 インド僧はつぶやくようにいった。
「道は険しく、野盜の危険もあるぞ」
 はぐらかすつもりで、玄奘はインド僧に笑いかけた。僧は、きびしい、有無をいわせぬ表情を見せていた。玄奘は、心を見透かされたような気がした。素直な言葉がでた。
「むずかしい旅になりましょうか」
「それはたいへんに困難だ。しかし、わたしのように、ともかくこうして来ているものもある」
「わたくしは、わたくしの疑問を解決したくてなりません。また、それ以上に、わたくしの力を試してみたいのです」
「わたしが止めても、きみはインドへ行くだろう。それは、煙りが高いところに昇るように、水が低いところに流れるように、だれにも止めることはできまい」
 インド僧は疲れたのか、いったん口をつぐんだ。それからしばらく、眼をつむって肩で大きく息をしていた。玄奘は、僧の額においた布をとると、冷たい水でしぼりなおして額にもどした。僧が、また、眼をひらいた。
「看病してもらった礼に、一つ、厄よけの経を教えよう。短いから、すぐおぼえられる。道すがら、口ずさむがよい。きっと災厄をまぬかれるであろう」
 貞観3年唐を出発、艱難を乗り越えて、玄奘は天山南路からインドにはいり、貞観9年に帰国するまで、ナーランダー寺院で戒賢らに学んだ。
 ナーランダー寺院にたどり着いた日、寺院のひんやりした建物の蔭のなかにはいっていくと、明るい日差しになじんだ眼が、暗がりに慣れるのに時間がかかった。しばらくして、ようやくあたりの様子がはっきりしてくると、奥にたたずむ人の姿が眼にはいった。玄奘は、ゆっくりと近づいていった。相手の顔が十分わかるところまできた。その人は、空恵寺で会ったあの病めるインド僧であった。
「とうとう来たか」
 僧は、静かな声でいった。
「あなたのおかげです。ずっとあなたに教わった経を唱えて旅してきました。それで無事にここまで来られたのです」
 玄奘は、僧と手をとりあって喜びたかった。もう、からだは、すっかりいいのだろうか。
「あなたは、この寺の方だったのですか」
 インド僧が笑ったように見えた。それは、玄奘の心の奥を見透かしたときの、あの薄笑いとは違っていた。その微笑みには、もっとあたたかいものが満ちていた。
玄奘よ」
 と、インド僧はいった。からだが地面からすこし浮き上がった。
「わたしが、観世音菩薩である」
 そういうと、インド僧は、中天に消えた。
(「私のニセ東京日記」を載せます。なぜ、玄奘の逸話が東京日記なのか。きのう、たまたま隣りあわせた酔っぱらいが、おれは前世で僧玄奘だったことがある、とわけのわからないことを口走って、この話をしてくれたからで、その証拠におれは経を知っているというのできいてみると、それは般若心経でした。その男が忽然と消えたので、まさか、と一瞬おもいましたが、酔いつぶれて椅子から地べたにへたり落ちただけでした)