先輩としてのぼく

ぼくは、後輩に威張ることもしなかったし、いじめることもなかったとおもう。しかし、ぼくがそうおもっているだけで、後輩たちが実際にどうおもっていたかなんて、知るよしもない。
 これが先輩の場合は、立場が逆だから、なにかをいいつけたり、やらせようとするときの口調で、ぼくのことが気に入らないんだな、とか、この人はぼくが嫌いなんだ、とすぐにわかる。
 会社というのは、学校なら同じクラスにいても3年間一度も口をきいたことがない、というような相手といっしょに仕事をするところだ。学校だったら気の合う仲間とつき合っていればいいが、会社はそれではすまない。だから、人間関係がうまくいったら、仕事は半分以上片付いたも同然で、すくなくとも、片付ける上での支障というものはなくなるだろう。
 ぼくは、有金君のように、先輩からかわいがられることがなかった。これでは、片付く仕事も片付かない。ぼくには多分にガキの部分があるから、それも自分の不徳のいたすところで仕方がないとあきらめていたが、せいぜい後輩にはそんなおもいはさせないようにしよう、とおもっていた。
 後輩の一人に、いつもシャツの裾をズボンからはみ出している男がいた(社長が、あれはシャツが短いのか、それとも胴が長いのか、と真面目な顔できくから、おもわずぼくは吹き出した)。ぼくよりよほど若かったが、覇気がなく、無口で、たまに話しかけてくるけれど、なにをいっているのかよくわからないところがあった。
 それでも、昼休みはいっしょに喫茶店に行ったり、帰りが同じ方向だったのでいっしょに電車に乗ったりした。彼は相変わらず無口だったが、ぽつぽつと話をつみかさねて、ぼくのほうはずいぶん打ち解けた気分になっていた。吊り革にぶら下がるように立っている彼のシャツの裾が、ズボンからはみ出していても気にならなくなっていた。
 入社して何カ月も立たない頃、彼は無断欠勤した。翌朝、ぼくがエレベーターを待っていると、彼がうしろから来てとなりに並んだ。口のなかで、おはようございます、と挨拶した。おはよう、と返事して、降りてきたエレベーターに乗った。ぼくは、べつに先輩面したわけではないが、「理由があって休むなら、電話で連絡しなくちゃいけないよ」と静かな口調で彼にいった。出来のわるい弟をさとすような気分だった。ちょうど、6階に着いて、エレベーターのドアがあくところだった。すると、突然、彼が興奮して、大きな声を出した。口がまわらないので、よくききとれなかった。そして、ドアをあけて事務所に入るなり、すでに出社して机に向かっていた社長に、話がある、とくってかかるように告げた。肩で大きく息をしていた。社長は、一瞬ぼくを見てから、社長室のドアをあけて彼に入るようにうながした。
 あとで、ぼくは社長に呼ばれた。社長は、笑いながら、「話にならない」といった。「彼はね、きみに注意されてカッとして大声をあげてしまった、というんだがね。わたしに話があるといって社長室に入ったとたん、シュンとして、ぼくは先輩に反抗してしまいましたから、もう会社にいられません、というんだ。わたしが、そんなことは課長は気にしないから大丈夫だ、といくらいってもききやしない。前からうちには向いていないとおもっていたところだから、本人がそれでよければやめてもらう」
「彼は、なんでまた大声あげたんですか?」
「それが、本人も説明できないんだ。きみが気にくわないというわけでもないようだ。気がついたら、大声をあげていたらしい。大声をだすことじたい、ばかげている」
 放っておいても、彼はひとりでに階段を踏み外して退社していったかもしれない。たぶん、早晩そうなっていただろう。けれど、なんだかぼくの胸は痛んだ。ぼくには女々しい部分があって、そこのところにこだわってしまう。ぼくは自分が、ひとよりえらいとも、まさっているともおもわないけど、彼に注意したとき、そんな調子が混ざってはいなかったか。そうだとしたら、ぼくが彼の背中を押したことになる。