美食家のA氏

 A氏は、指揮者で美食家だった。
 ぼくは、指揮者といえば、カラヤン小沢征爾しか知らない。
 同様に、美食家というのは、レックス・スタウトのミステリに登場する、「蘭とビールと美食をこよなく愛する巨漢探偵ネロ・ウルフ」しか知らない。いや、こちらのほうは、ポアロやらだれやら、もうすこしは知っているかもしれない。
 A氏が指揮者に見えるとしたら、口のまわりのひげと、髪型くらいのものかもしれなかった。それだって、カラヤン小沢征爾にくらべたら、ずっとおとなしい髪型だった。
 からだつきも中肉中背で、けっしてネロ・ウルフのように、7分の1トンと書かれるような肥大漢ではなかった。もっとも、ポアロだって小男のようだし、太っていなければ美食家とはいえない、ということもないだろう。三島由紀夫のような筋肉のかたまりもいたことだし。
 美食家は、美食家でありつづけるために、ひたすら美食を繰り返すことになる。内田百間も美食家といわれるが、あの先生は手元不如意をしいられることが多かったから、「おからでシヤムパン」に代表されるように懐中と相談しながらの贅沢で、ぼくには美食よりもっと旨いものを口にしているようにおもえる。
 美食の落とし穴は、お金がかかることなどでは、けっしてない。もちろん、余裕がなければ美食家とよばれる食卓につけるものではないが、美食がもたらすアンヴァランスをつい忘れてしまうこと、これが落とし穴だ。
 A氏は、ある日、ひょっとした拍子につまずいた。足の爪がちょっと浮き上がった。痛いよりも、つまずいたことのほうがショックだった。足が衰えたということだろうか。ダンディなA氏には、老いは堪え難いことだった。老いぼれるくらいなら、いっそ素敵なうちに夭逝(年が若くて死ぬこと)したい、とおもうほうだった。
 A氏のつま先は、化膿して、なかなか治らなかった。それどころか、変色した部分が、だんだんひろがるように見えた。不安をおぼえ、多忙な時間を割いて、久しぶりに主治医を訪ねた。診察した主治医の顔がくもった。壊疽だった。
 A氏は、長い美食生活で、いつしか糖尿を患っていたのに気づかなかった。中肉中背でいっこうに太らないことが、健康を過信させ、検診から遠ざけていた。ご存じのように、糖尿病の患者は、怪我が治りにくい。
 A氏は、指先を失って、ステッキをつくようになった。しかし、それだけでは終わらなかった。いつまでも傷跡は完治せず、じょじょに壊疽はひろがった。やがてA氏は足の甲まで切除して、松葉杖になった。
 A氏が膝下まで失くされて車椅子で来店されたのは、しばらくあとのことだった。A氏は指揮者の威厳をたたえていたが、艶やかだった夫人の顔は、しぼみかけた風船のように見えた。「具合がわるくても、お宅に来ないと季節がやってきたような気がしない」とA氏がいわれた。それが、A氏を見た最後になった。
 その後、一度、夫人が一人でみえて、「足の付け根まで切断したので、主人は外出できなくなりました」と告げられた。しぼんでしまった風船のような顔をくしゃくしゃとしたから、泣いたのかとおもったら、笑ったのだった。「もうこれ以上切りようがありません」
 A氏は、夭逝とはほど遠かった。なにしろ、初老に達していたのだから。初老とは、「老人の域にはいりかけた年ごろ」と国語辞典にある。しかし、この国語辞典にはまた、「もと、40歳の異称」ともある。それなら、45歳で夭逝を願っていた三島由紀夫はどうなるのか。三島の死が夭逝なら、A氏の死だって夭逝でいい。なんといっても、本人がそう願っていたのだから。
 A氏も三島由紀夫もともにフジヤ・マツムラの顧客だから、そしておたがい腹を切ったり足を切ったりしたのだから、ぼくはべつに夭逝であっても構わない。しかし、美食は健康によくないから、お二人ともすみやかにあらためなさい。