値札付けのおばさん

値札付けのおばさんの話をしよう。
 ぼくが入社したときには、川中島さんというおばさんが値札付けをしていた。
 値札は、機械で印刷(というか、印字)していたが、品番や記号を糸の付いた小さな(3.5×4.5センチくらい)紙の札のなかに打ち込むため、活字もそれほど大きいとはいえなかったから、ひとつひとつピンセットでつまみあげてケースのマスにセットするのは、眼の良い人でもけっこうたいへんだった。老眼鏡を鼻眼鏡にして、大型の虫眼鏡を用い、さらに眼を細めている川中島さんには、ほんとにたいへんだったのではないか。
 まあ、小型の印刷機のようなものだから、活字をセットしてスイッチを押せば、積み重ねた値札の束から1枚ずつ繰り出されて、ポンと印字される。靴下やハンカチのような同じ品番のものがたくさんあると、ダイヤルの数字を必要な枚数に合わせてスイッチを押してやるだけで、100でも200でも自動的にできてしまう。これは楽でよろしい。もっとも、値札を付けるのは手でやるから、手放しで喜んでもいられない。
 かぎ針とよんでいたレース用の針で、靴下の編み目をよく見て、本体にキズをつけないように注意しながら、値札にくっついている糸をとおして引っ掛ける。ハンカチは目立たない端にかぎ針の頭で穴をあけ、糸をとおす。はじめはだれでもうまくいかないものだが、しばらくこればかりやらされると、自分でもほれぼれするくらい上達して、もっとやりたいとおもうようになる。
 ところが、品番の同じものばかりとはかぎらないので、1点1点活字を拾い直さなければならない場合がでてくる。そして、これが案外多い。単発に何点か入荷したときなら、それでも余裕で片付いてしまう。しかし、春とか秋の、契約品があっちの問屋、こっちの問屋から続々到着する時季になると、値札付けのおばさんは朝から晩までカッチャンカッチャン休みなく値札を作らなければならなくなって、それがいちいち活字を取り替えなければならないときては、川中島さんもふくれて口もきいてくれなくなってしまう。
 ぼくらはぺーぺーで、店にいても大して役に立たなかったから、6階の倉庫に駆り出されて、段ボール箱で入荷する商品をハンガーラックに移した。入荷する段ボール箱は何十箱にもなって、倉庫にはいりきれなくて廊下にも積み上げてあった。それを片端からふたをあけて、ハンガーラックに移して掛ける。そして、納品書と入荷した品物が合っているかを検品し、川中島さんにまわす。ハンガーラックは何十本にもなり、納品書は厚い束になって川中島さんを脅迫した。「あんたたちは、ひとのこと、殺す気なの」と、川中島さんは社長にきこえないように、ひそひそ声で抗議した。
 それでも、単に店出しだけなら問題なかったが、外で催す展示会をひかえているときは待ったなしだったから、そしてたいてい50箱分の商品を用意したから、そのときは川中島さんには地獄だっただろう。なぜなら、商品は、いつだって1週間前にならないと揃わなかったからだ。どんなに早く手配してあっても、なぜか必ずそうなってしまった。
 川中島さんがいくら果物が好きだといっても、そういうストレスにさらされなかったら、眼に余る暴食には走らなかったかもしれない。家に帰って、いちごなら2パック、桃は一度に5個、西瓜なんか丸ごと1個食べてしまう、と自分でいったことがある。「川中島さん、それは食べ過ぎだよ。気をつけないと、からだこわすよ」と、いつも川中島さんのほっぺたを指先でプニュプニュしている有金君が、本気で注意した。「あら、もう、この子は、ひとのことをおもちゃにして」といいながら、色白でぽっちゃりしたもと青森美人の川中島さんは、有金君に頬を押されてうれしそうにしていた。60になるというが、10歳くらい若く見えた。
 ぼくが川中島さんの異常な食欲を眼にしたのは、たまたま用事で事務所に行ったときのことだ。手を洗おうと流しのところに行くと、川中島さんがいて、背中を向けてせわしそうに顔と手を動かしていた。「かーわなかじーまさん」とうしろから声をかけても、知らん顔して同じ動作をつづけている。「どうしたのさ、すましちゃって?」と脇からのぞき込むと、口のまわりを甘そうな汁でベタベタにして、桃をむさぼり食べている最中だった。ものもいわずに一心に桃にかぶりついている姿は、ちょっと怖かった。「見たなあ」という例の怪談を想い浮かべた。流しに転がっている核の数は半端ではない。いちいち皮をむくのももどかしいのか、皮ごと齧りついて、口にいれてから皮だけよけて吐きだしている。声をかけたぼくに、とられてなるものかといった様子で姿勢をかえて、かたくなに背中を向けつづけた。
 やがて全部の桃を食べ終わると、川中島さんは、ふう、といった。そして、手と口のまわりを水道で洗うと、ようやく落ち着いたのか、きまりのわるそうな顔をして笑った。「内緒にしてね。なんだか我慢ができなくなって、昼休みに買ってきた桃を無性に食べたくなったの。1個だけにしょうとおもったのに、食べだしたらキリがなくて、止まらなくなっちゃった。家に帰ったら主人と食べようと、10個買ってきてあったの」
 川中島さんが退職してから、家が同じ方向にある事務所の銀河さんが、どこかの駅でばったり会ったらしい。「それがあなた、わたし、びっくりしゃった。川中島さんてぽっちゃりして、色白で、若々しかったでしょ。それがちがうの。しなびたおばあちゃんになって、よれよれなの。ほんとよ」
 今回の話には、オチも教訓もない(もっとも、いつもありませんけど)。ただ、あのとき、川中島さんがぼくにも1個桃を分けてくれていたら、銀河さんの話をきいたとき、いまよりもっと余分に同情の気持がわいたことは確かじゃないかな。