続・値札付けのおばさん

川中島さんのあとにきた値札付けのおばさんは、斜塔さんといった。
 斜塔さんは、大学を卒業してからずっと、NHKでアルバイトをしていた。
 何十年もNHKでアルバイトができるものかわからないが、斜塔さんの話のなかに木村さんとか森本さんとかいう名前がでてきて、それはニュース・キャスターの木村太郎さんや森本毅郎さんのことだった。けれど、ほんとに親しかったのかなあ、という雰囲気が社内にはあった。
「気がついたら年をとっていて」と斜塔さんはいった。「わたし、保険証というものを持っていなかったの。ほら、アルバイト社員には保険証も年金も関係ないから、天下のNHKも出してくれなかったのね。わたし、丈夫だから、お医者さんに行ったことがなかったの。
 ふと、わたしはもう若くないんだわ、と気づいたら、急に不安になって、アルバイトじゃなくて正式にお勤めしようとおもったの。だって、お友だちのなかには、もうおばあちゃんになったひともいるのよ、お孫さんができて。でも、わたしがやってきたことって、キャリアにはならないのね。大学もでて、お茶やお花の師範ももっているけど、そんなのいざとなったらぜんぜん使い道がなかったわ。
 それで、どうしようっておもったとき、事務の仕事をみつけたわけ。もっとも、事務といっても雑務にちかいけど、ちゃんと保険証も年金手帖も手に入れて、ひと安心よ」。
 森本毅郎さんがフリーになったとき、斜塔さんはフジヤ・マツムラを紹介して、民放のニュース番組用のネクタイを購入するよう、森本さんにすすめてくれた。ニュース・キャスターの締めているネクタイが話題をよんでいたころのことだ。毎日とりかえるのだから、週に5本は必要となる。しかし、残念ながら、森本さんは来店されたが交渉はまとまらなかった。まとまらなかったが、これで斜塔さんがNHKにいたことが、ちゃんと証明された。
 斜塔さんは小柄で、それもずいぶん小柄で、ものによっては子ども用の洋服でも着られる、といった。じっさい、フリルのついたハイジのようなワンピースや、ボーイッシュなキュロットは、よく見ると子どものものだった。斜塔さんは、色黒で、顔の彫りが深く、木彫りのインディアン人形のようにもみえた。釜本次長は、トーテンポールのいちばん上にのっている顔のような、という表現をした。かわいい少女のつもりで誘拐してからよく顔をみたら、誘拐犯もびっくりするだろうな、とだれかがいった(ぼくがいったんです、すいません)。
 しかし、落としてから持ち上げるわけではないが、斜塔さんのような知性というのも、世間にはなかなかいないとおもう。非常に頭がいい。女性にしてはバランス感覚が抜群。性格が素直で穏やか。それでいて批判精神に富み、人情が濃やか。「なんで斜塔さんのような人に結婚を申し込む男性があらわれなかったんですかねえ」と結婚していて安心なぼくは、きいてみた。「よけいなお世話よ」。ごもっとも。
 値札付けのおばさんでも、暇な時期はお使いをしてもらった。集金とか、お届けとか、用事はいくらでもある。
 六本木のそのマンションに、組関係の事務所があった。トップが顧客では、いやでもお届けや挨拶回りに行かざるをえない。斜塔さんはどういうものか、その方面を怖がることがなくて、平気でトコトコでかけていった。まあ、女性にはそういう関係の人たちも、当たりがやわらかいのかもしれない。
 斜塔さんは、マンションの1室のドアの前に立って、インターホンのボタンを押した。ここからは、組の若い衆の視点にかわるのだけれど、ピンポンと音がするから、丸い小さなレンズの窓から外をのぞいてみたがだれもいない。あれ、空耳だったかな、とおもっていると、またピンポン鳴った。レンズからドアの外を見るが、やはりだれの姿もない。気味がわるいぜ、といぶかっていると、三たびピンポンときた。おそるおそるドアをひらいて廊下の左右をうかがってみたけれど、廊下にはだれもいない。そこに足もとから、「こんにちは」といって声がして、ちっぽけなおばさんがニコニコして立っていた。あまり小さかったので、ドアのレンズにはいらなかったのだ(これは、トップの方がみえたとき、笑いながらしてくれた話で、ぼくのヨタではありません)。
 斜塔語録に「だんどり」という言葉がある。斜塔さんは、整然とものごとをすすめるのが好きで、途中からゴチャゴチャと押し込まれるのは好きではなかった。回ってきた伝票の順に値札作りをしているときに、突然横から釜本次長がやってきて、「先にこっちのを作ってくれ」といわれると、「段取りが狂いますから」といってすぐにうんといわなかった。次長はぼくに、「きみがいって、こっちのから先にやらせてくれ」といった。「あのダンドリッチと話していると、むかついてくる」。
 ぼくはノコノコ斜塔さんのところに行って、なぜこちらを先に作ってほしいのかを説明した。「はい、わかりました」といって斜塔さんは作りはじめた。斜塔さんにとって、手もとにある伝票と、あとから渡される伝票では、手もとにあった伝票のほうが優先順位が上なのである。あとからきた伝票のほうが、先にあった伝票よりも優先順位が上だとわかれば、段取りをしてあとからのを先に作るのは当然のことで、なんの不服もない。説明責任を果たさないで、こっちだあっちだいわれても、どっちにしたらいいのかわからないだけのことで、斜塔さんは明解じゃありませんか。