K氏とNさん

 Nさんは、もと看護婦さんをしていた(お客様だから、N様、というべきだが、うちうちでは親しみをこめて「さん付け」していた。山口瞳先生を、かげで「瞳さん」とおよびしていたのと同じように)。
 華麗な男性遍歴があるという噂で、年齢のわりに白いつやつやした肌を見ると、なるほどとおもえた。しかし、なにがなるほどなのか。噂は噂で、推測の域を出ないのではないか(Nさんに淫蕩なイメージをもっていたのは、鎌崎店長と釜本次長だったが、なぜなのかは本人たちにも説明できなかっただろう)。たしかに何度か結婚をされて、何度か離婚をされたが、それが遍歴といえるのだろうか。
 Nさんもフジヤ・マツムラの顧客だったし、もとのご主人たちも同様に顧客だった。もちろん、ご主人同士は知合いというわけではなく、昔はそんなにお店がなかったから、セレブな方々はここに来るしかなかったのだ。たんに「あなたもわたしも顧客」というに過ぎない。
 この別れたご亭主たちのなかで、Nさんの悪口をいう人は一人もいなかった。岡山で展示会をしたことがあったが、もとご亭主のお一人に偶然お会いした。へえ、岡山まで嫁がれたことがあったんだ、とぼくはひそかに驚いた。そのもとご主人は、なつかしそうに目を細めて、あれはいい女でしたよ、達者で暮らすように伝えてください、といわれた。
 ある日、大学生のような青年が、Nさんに頼まれてきました、といって入金にみえた。痩せて小柄で、坊ちゃん刈りの頭で、丸い眼に眼鏡をかけていた。定期入れのなかから、四つにたたんだ1万円札を3枚取り出して、ひろげて差し出した。それが、駿河台のK氏だった。「Nさんは、あんな男の子まで」と、店長がいやらしい笑い方をして次長を見た。次長が二度うなずいた。
 それから、毎月、月末になると青年はやってきて、定期入れからたたんだお札を出した。無口で、眼鏡の奥の丸い眼がおどおどしていて、用事がすんだら一刻もはやく逃げて帰りたい、といった素振りが見えた。最初に受け取ったのがぼくだったせいか、二度目からもぼくをさがすような仕種をしたので、なんとなくぼくが係のような格好になった。それでなくても、入金にしか来ない、見るからにパッとしない風采の青年が相手では、だれも積極的に前に出たがらなかった。
 次にNさんがみえたとき、青年のことをきいてみた。「ああ、Yさん?」と、名前をいって、「あの人、わたしの患者さんの子どもなの。亡くなる前に、ずいぶんわたしを信用してくれて、子どものことを頼むって。財産があるから、いろいろ狙われて大変なのよ」とあっけらかんといわれた。
 お金持ちだとわかると、いままでそっぽを向いていた人たちが、とたんに揉み手をするようになった。店内の雰囲気が変って、K氏はとまどっただろう。しかし、相変わらず無口で、いつもの静かな様子でポケットから定期入れを出すと、たたんだお金をひろげてぼくに渡した。
 駿河台にビルが建つと、最上階の12階がK氏の部屋だった。叔父さんは10階に、そして驚いたことに11階にNさんが住みはじめた。店長のいやらしい笑いを思い出したが、ぼくが世間のことをなんにもわかっちゃいないということなのか。なんだか、呼ばれて駿河台に伺うのがいやになった。「Yさんが、買い物したいけど銀座の店に行くのはいやだ、といい出したので、あなた来てあげて」とNさんからいわれて、たびたび商品を持って外商に行くようになっていた。
 その日も、いつものように商売がすんでから、雑談しながらお茶を飲んでいた。お二人とも、ぼくがうかがうと、やたらなにか食べさせたがった。ぼくは、人前でなにか食べるのは苦手だけど、このメンバーなら気が置けなかった。
 事務所から電話があって、ちょっと失礼します、といってK氏が出て行かれた。ぼくも立とうとすると、「あなたはいいのよ、まだいても」とNさんがいった。「Yさんがもどったとき、あなたがいなくなってると淋しがるから。すぐ帰ってくるからいてあげて」
 それから、Nさんは、ぼくの眼をのぞき込むように見てから、ゆっくりと話しはじめた。
「あなたもへんだとおもっているんでしょ? わたしがここに住んでるのを。でもね、いろいろわけがあるのよ。うちの娘が、Yさんのお嫁さんになるはずだったの。本人同士もそのつもりでいたの。でもね、恥ずかしい話なんだけど、娘が妊娠しちゃったのね、ほかの人の子ども。Yさんは、ああいう人だから、びっくりして傷ついているはずなのに、仕方ありませんねっていったの、ぼくがこんなですからって。わたしは、申し訳なくって、あの人の親御さんにもすまなくて、罪ほろぼしに身のまわりの世話をさせてもらっているの。うちの亭主もそうしてやれといってくれるし。亭主の世話はほかの娘が焼いてくれているから。一人じゃ、Yさん、ほんとになにもできないのよ。ああいう人って世の中にいるのね。あなた、だれか若い女性ご存じない? 天涯孤独で係累のないような。親戚がいたら、Yさん、きっと裸にされちゃうわ」
 だれにもいっちゃ駄目よ、と釘をさされたから、ぼくはだれにもいわなかった。K氏は、だれとも結婚しなかったが、時代と寝たために結局裸にされてしまった。駿河台下の青いビルに移るといったとき、その場にNさんもいた。k氏はすこし風邪気味で、医者に行ってきます、といって出ていかれた。ドアが閉まるとNさんは、ドアの向こうを顎でさして、
「あの人のことは、できるかぎり守って、面倒みようとおもっているの。わたしの妹も手を貸してくれるというし」
 と、しみじみとした口調でいわれた。
 こんな話は書かないほうがいいのかもしれない。しかし、Nさんの名誉はだれが守ってくれるのか。