K氏の青いビル

 バブル景気というのが、かつてあった。景気が長く低迷していると、そんなことがあったっけ、と不思議におもえるかもしれない。
 1980年代後半から90年代初頭にかけての、本当にいつはじけてもおかしくないほどの浮ついた景気のよさというのは、ほとんどバブルに無縁だったフジヤ・マツムラにも、それなりのにぎわいをもたらした。うな重を食べている人のとなりで、おむすびを食べるようなものであったけれど。
 たとえば、一人の老婦人は、半分困った顔でこういわれた。
「お父さん(ご主人のこと)が、遺産を5億のこしてくれたから、ほんと大変なの」
 金利が年6パーセントのときのことなので、1億円あれば月に50万円利息がついた。だから、この方の場合、毎月250万円ずつ預金がふえていくことになる。放っておけば利息は、2カ月で500万円、3カ月で750万円にふくらむ。1年使わなければ3000万である。しかも複利だから、この250万円がまた利息を生み出すのだ(他人のお金といえども、これくらい増えてくれれば、じつに気分がよろしい)。
「ちょっと風邪かなんかで寝込んでごらんなさい、あなた。買い物に歩けなくて、翌月が大変なの。わたしはもう80だから、とてもじゃないけど5億なんて使いきれませんよ。ずうーっと、5億余りっぱなし。で、利息分だけでもなんとか使いきってやろうとおもっているの。寝込んでたら、それもできないでしょ。毎月250万円使うのって骨よ。ぐずぐずしてると、また次の利息が付いてきて、ああ、どうしよう」
 もちろん、あえて恩恵に浴さない人もいた。
 表参道の裏に古いクリーニング屋さんがあった。32坪の敷地に、ぼろっちい(ごめんなさい)木造の家屋が建っていた。しかし、腕は抜群だし、真面目でとにかく商売熱心だった。そこに毎日、地上げ屋と称される不動産屋が、入れ替わり立ち代わりやってきては名刺を置いていった。名刺はみかん箱に2杯たまった。最高の値がついたときには、坪3千万円、総額9億6千万円にまで上がったという(いまはまた、その10分の1まで下がっている)。それでもご主人のM氏は首をたてにふらなかった。奥様もそんなご主人が自慢だった。
「この土地を売って、近所に住もうとおもっても住めなかったんですよ、高くて。すると、どこか郊外に引っ越すようになるでしょ。それでは、ひいきにしてくれているお客様にもご迷惑だし、だいいち、知らない土地に移ったら猫がかわいそうだ、顔見知りの猫がいなくて」
 当たりくじがあれば、はずれくじ(スカ)もあった。
 駿河台に土地をもっていたK氏は、バブルのまっさいちゅうに6つめのビルを建てた。文化学院や山ノ上ホテルのすぐ近くである。銀行が斡旋して、1階と2階に空調設備の大手会社がテナントとしてはいることになった。その家賃で銀行の借り入れを返済できるように組んであった。いずれ、何十年かたったら、いつの間にか返済が完了しているという按配である。マンションにしなかったのも、そのへんの事情があった。
 K氏にはすでにご両親がなく、まだ若かったが公務員を辞めて実業家になった。叔父さんが後見人になっていた。ほかのビルはもちろん順調だし、新しく建てた駿河台のビルも、金の卵をうむガチョウのように見えた。叔父さんは、営業を担当して、銀座の接待費が、毎月、記録更新した。
 2年ほど順風満帆に過ぎたが、3年めに予想外のことが起きた。テナントではいっていた空調設備会社が移転することになったのだ。家賃を下げることで交渉したが、先方の方針は変らなかった。銀行は、返済に有利なようにテナントを斡旋したまでで、出ていくものは強制できないといった。その会社の希望通りにワンルームで設計した1階2階は、とても広くて、そっくりからっぽになったところは、天井の低い体育館のように見えた。それでも、景気は最高潮だし、どこかの会社がこの部屋を借りたがるだろう、とK氏は案外のんきだった。
 空室が、だんだん負担になってきたのは、それから何年もしないうちである。相変わらず借りてのないだだっぴろい空間は、そのままK氏のこころのなかに似ていた。ここから収入を得ていた何百万が、来る月も来る月も降ってこないのである。返済はほかのビルの上がりを流用してとりあえず埋めていたが、こころの空虚はひろがるばかりだった。こんなことなら、いっそマンションにしておけばよかった、と何度も後悔した。それなら、万一部屋が空いても、減収は微々たるものだ。
 銀行の催促が頻繁になり、返済が追いつかなくなると、その場しのぎに1つまた1つと小さいビルから売り始めた。ビルが1つ売れれば、しばらくは息がつける。しかし、それはほんの一時で、やがてまた追いつかれそうになる。また売る。ちょっと息をつく。ビルがいくらでもあるならば、ずっとそれを繰り返していればよい。K氏は、最初にミスをおかしたのだ。処分するべきは、最後に建てた駿河台ビルで、そうしていれば、ほかのビルの1つか2つは助かったかもしれない。叔父さんも発狂しなくてすんだかもしれない。
 ぼくが最後にK氏にお会いしたのは、1998年の春だった。花粉症に耐えきれず、駿河台の楽満さんに駆け込んだ帰りに、もしかしてとおもってK氏のビルまで歩いていった。K氏のいらした階のインターホンにまだK氏のお名前があった。ぼくはインターホンのボタンを押してみた。
「このビルも競売にかかって、とうとういられなくなりました。このあとは、ほら、あの下に見える青いビル、あそこに移り住むことになっています」
 ぼくは、高台の12階の窓から、足もとの向こうに見える青い小さなビルを確認した。
「100億の借金をかかえたのが、あちこちのビルを売って、ようやく70億まで返しました。だけど、もういけません。おしまいです。学生のとき、親から毎月小遣いを貰っていましたが、それが微妙に足りなくて、さあ、今月はどうやってやりくりしようか、とよく考えたものでしたが、なぜかこのごろ、そのことばかり思い出すんです。億のお金を動かしていたのに、へんですね」
 ぼくはK氏に、引っ越し先の青いビルに訪ねていくと約束した。K氏はぼくよりずっと若かったが、ぼくをずいぶんひいきにしてくださった。それは、たとえはわるいが、人見知りの犬がぼくにだけ背中を撫でさせてくれるような、そんなふうなおつき合いだった。
 ぼくは、しばらくして、青いビルに行こうとおもった。しかし、駿河台下の、このあたりと見当をつけた場所をいくらさがしても、青いビルは見つからなかった。それは、はじめからなかったかのように、奇妙に見つからなかった。やがてぼくは、あきらめて歩き出した。なんだか自分がスカのような気がした。ぼくを待っているかもしれないK氏の弱々しい笑顔が、ふと頭をよぎった。