ヒトラーのその後

 フランスから綿貫君が帰ってきたので、銀座で待合せることにした。1983年のことだ。
 綿貫君は、なぜだか丈の短いスラックスをはいている。
「そのズボン、短くないかい?」
 と、私はわざとたずねた。
「え? そうでしょうか。短いですか?」
 といって、彼は自分のスラックスの裾をのぞきこんだ。
 靴とのあいだに靴下がみえるくらいだから、短いにきまっている。
「いいんですよ。気にしません」
 といって、綿貫君はすました顔をした。
 本人が構わないなら、こちらも構わない。しかし、フランスではこんなに短い丈が流行っているのかしら、とおもったから、もう一度きいてみた。
「ズボン、なんだか、短いようだよ」
 綿貫君は、笑い出して、
「そんなにひとのパンツの丈を気にしなくてもいいですよ」
 と、私の肩を押した。
 私たちは、ロバの耳で待合せて、まずいコーヒーを飲んだあと、お多幸に行った。パリでいちばん食べたかったのは、お多幸のおでんと鳥ぎんの釜飯でした、と綿貫君がいったからだ。
 綿貫君は、おでんではちくわぶが好きで、かならずたのんだ。私は、うどん粉の固まりのようなちくわぶは、好きではない。よく味のしみたちくわは好きだが、あれは魚のすり身だから食感がちがう。
 綿貫君は、ちくわぶと、玉子と、大根と、半ぺんと、ジャガイモと、さつま揚げと、豆腐と、こんにゃくと、昆布と、フクロを食べた。ビールを飲みながらだが、彼の場合はビールなんか水がわりだから、いくら飲ませても張合いがない。いいかげんで茶飯をもらう。赤だしのシジミの身まで、私は家では食べるが、外では食べない。彼がシジミをほじくって食べたかどうかは、私の知ったことではない。
 お多幸ののれんをくぐって外へ出ると、
「あーあ、ごちそうさまでした。おいしかったですけど、食べてしまうと、釜飯のほうがよかったような気もしますね」
 と、綿貫君はいった。
「じゃあ、焼き鳥でも食べに行こうか? 釜飯は半分こにしてもいいよ」
「冗談ですよ。ちょっと食べ過ぎました。焼き鳥は、今度でいいです」
 それからまた、向かいのビルの地下のロバの耳にもどって、まずいコーヒーを飲んだ。
「そういえば、向こうで面白い話をききました」
 細い葉巻のようなタバコをふかしながら、綿貫君がいった。
「面白い話ねえ」
 私は、気のない返事をした。
「またあ。冷たいんだから。きけば、へえっておもいますよ」
「前に本を貸してくれたことがあったよね、二千何年の真実とかいうやつ。UFOはドイツ軍が飛ばしているだとか、ナチスはヴァチカンを通じて南アメリカに逃亡したとかいう話が載っていたけど。また、そんな話なんじゃないの」
「ええ。それにちかいんですけど、ヒトラーが生き延びて日本に来たという...」
「眉唾だなあ。怪しいよ、そういう話」
「でも、向こうのインテリのあいだで、パーティの席なんかではひそかにささやかれているんですよ」
「いまごろ、そんな話してるの?」
「ええ。父親がUボートの乗組員だったドイツ人がいて、その人が父親からきいた話だそうです」
「ふーん、Uボートって潜水艦だよね」
ヒトラーを乗せてドイツを出国したんだそうです。それから、日本の伊号潜水艦に乗り換えて、ヒトラーだけ日本に上陸したということでした」
「ほんとかなあ?」
「上陸したのは、鹿島灘です」
「どうしてわかるの?」
「これは、ぼくの推理ですよ。ぼくの伯父が海軍の中尉だったんですが、終戦間際に作戦で鹿島灘で負傷しているんです。特攻隊の兵士のために、鮫の脳下垂体が夜目に効くというので、漁師に船を出させて獲らせていたのですが、ある日突然無数の米軍機が飛んできて機銃掃射を受けたといってました。おかげで大尉になれたって」
「それで?」
「いや、べつのときの伯父の話に、潜水艦が浮上してなかからチャップリンが出てきた、といっていたのを記憶しているんです。そのときはチャップリンなんか知らなかったが、戦後ようやく上映された洋画を観にはいった映画館で、この男ならみたことがあるとおもったそうです」
「それで?」
「伯父が負傷した日がヒトラー上陸の日だったのではないか、とは考えられませんか? ほら、チャップリンヒトラーって似てるじゃないですか。そんな役もやっているし」
「それで?」
「それから先は、高島さんの想像力の出番じゃないですか。ぼくのヒントはここまでです。あ、もうひとつ。ヒトラーは、ドイツを脱出するとき、なにか非常に貴重なものを持ち出したらしい、とUボートの息子がいっているそうです。ユダヤ人に帰属するもので、ナチハンターが血眼になって追っているもののようですけど、まだ不明です。そういえば、例のスイス銀行にも莫大な金額が、永久に引き出されることなく眠っているといわれていますね」
(今回は、「ぼく自身のための広告」です。長編冒険小説『宝石の眠り』は、いま、ようやくその発端にたどりつきました。遊学先のフランスから帰国した綿貫晋一がふとしたことから事件に巻き込まれ、日仏混血の謎の美女、アン・マリーとともに大柄の老嬢のような1947年型のロールス・ロイスを駆って、闇の奥から迫り来る危機に身をかわしながら事件の核心を追ってゆく物語は、おでんのように、釜飯のように、きっと読者を堪能させることでしょう。ただし、ペーパーバックですので、書店でお求めください。乞う! ご期待)