大将

 フジヤ・マツムラの創業者は、社員から大将と呼ばれていた。
 京橋界隈にあった旧い左官屋さんの息子で、子どものころから勉強が大嫌いだった。本をひろげると、頭が痛くなったそうだ。
 昔は、家を継ぐ長男以外は奉公に出るのが普通だったから、たぶん小学校をおえてすぐ、丁稚奉公の小僧になったのだろう。
 年季があけて、実家の援助で銀座に店を出した。はじめはネクタイとシャツの店だった、ときいたけれど、靴下だったかもしれない。
 戦後、いち早く舶来品を手がけて、業界のトップに立った。自社ビルが買えるくらい儲かった。しかし、商人は不動産なんかに手を出してはいけない、といって買わなかった。お妾さんが何人もいたから、お手当てが払えなくなってしまうと困る、道楽ができないのは困る、とおもったのかもしれない。まだぺーぺーだった砂糖部長は、毎月月末になると自転車に乗って、赤坂までお手当てを届けにまわっていた、といって耳のうしろを掻いてみせた(この自転車は、のちに飯田橋までお使いに行った、まだぺーぺーだった店長が盗まれてしまった。ぺーぺーの店長は、飯田橋から泣きながら銀座まで歩いて帰ってきた)。
 その頃は、月給も金額がきまっていなくて、大将の気分でくれるものだから、給料間近になるとみんな一所懸命売り上げを伸ばそうとした。いくら成績がよくても、あまり早いうちだと、給料日までには忘れられてしまう。大将はごく最近のことしかおぼえてないので、給料日の前の日にめざましい活躍をしようものなら、袋の中身はほかの社員よりずっと多くなった。だから、給料日前の社員たちは、梯子をかけて上がるような高い所に飾った品物は、なるべく自分で取りにあがらないようにした。それは下にいて、受け取ってお客様に見せた人の売り上げになったからだ(ぺーぺーのときの砂糖部長は、もっぱら梯子に登るほうの役だった)。
 それと、給料には直接関係ないが、ウインドウのなかに飾ってある品物も、社員たちは取り出そうとしなかった。「あれを見せろ」といわれても、「どうぞ、眺めるだけにしてください」といって、ウインドウから出して見せなかった。これは、売れればすこしも問題ないが、売れなかった場合が厄介だった。「なんで客が買いもしないものを、飾りを外したんだ!」といって大将にどやされるからだ。
 大将の飾り付けは、それくらい力が入っていた。半日以上かけて、品物の位置を変えたり、ひろげたり、縮めたり、伸ばしたりした。そして、ちょこっと動かしては眺め、またちょこっと動かしては眺めすることを、飽きずにくり返した。
 店の正面に立って、タバコを吸いながら、ウインドウの飾りを見据える大将の片足が、雑巾バケツに入っていたこともあった。無我夢中になると、わからなくなってしまう人だったらしい。
 社内旅行は、汽車のなかで社員がうれしそうにしないと機嫌がわるくなった。だから、みんな子どものように窓の外を眺めて、「すごいなあ、たのしいなあ」と口々にいい合った。すると、とても上機嫌で、ニコニコしていた。
 ぼくが創業者について知っていることは、残念ながらこれだけである。