勘違い

 世田谷に挨拶回りに行ったとき、どうしても1軒のお宅が見当たらなかった。
 その住所の場所は、長い塀がつづいていて、それらしい家がない。塀は、こちらの角から向こうの角まで、ずうっとつづいている。それもそのはずで、近くに立っていた住居表示板でようやくわかった。そのお屋敷の敷地だけで1丁目全部を占拠していたのだ。FサッシのS氏のお邸だった。
 S氏は一代でFサッシを日本一にのし上げた方で、はじまりは自転車1台だった、と砂糖部長にきいたような気がするが、勘違いかもしれない。最後はまた、自転車1台にもどってしまったのは確かなことだけど。
「Sさんに食事に誘われたことがあるの」
 と、荻馬場さんがいった。ずっと昔のことだろう。
「お客様とお店以外でおつき合いするのって、問題があるでしょ。それで会社にきいたら、失礼がなければいいだろうって、オーケーがでたの」
 荻馬場さんは、指定された料亭に、晩餐をごちそうになりに出かけた。高級な料亭での食事なんかはじめてだから、非常に緊張したが、それよりなにより料理がとてもおいしかった。うまくお話できなくて、間がもてないから、ひたすら食べた。S氏は、そんな荻馬場さんを、お酒をゆっくり飲みながら、ながめていた。
 ところが、やおらS氏が立ち上がって、となりの部屋とのふすまをあけたので見ると、そこに布団が敷いてあった。荻馬場さんはびっくりした。それがどういう意味か、子どもの荻馬場さんにだってすぐ理解できた。
 荻馬場さんは、あわてて箸を置くと、
「それだけは勘弁してください。わたしはまだ、嫁入り前のからだです」
 といって、畳に額をすりつけてお願いした。
「それから、どうしたの?」
 と、ぼくはきいた。
「そうかっていって、また社長さんは飲みはじめて、わたしも御飯のつづきを食べて、無事かえってきたの」
 その話をきいたあとで、あるマンションにお届けに行くことがあった。ドアがあいて、奥様が顔を出した。
「あら、あなた、ちょうどいいときに来たわ。ちょっと入って」
 奥様について廊下を歩いていくと、奥の部屋にベッドが見えた。
「主人が出かけて、いま、いないの。さあ、こっちに来て」
 ぼくは、部屋の入り口で困ってしまった。そんなぼくの様子を見て、奥様がいった。
「ばかね、何考えてるの。部屋の模様替えしていたところなのよ。わるいけど、ベッドの位置をかえるから、手伝ってよ」