うわさ話

〈うわさ話その1〉
 齋藤十一氏は、新潮社の顧問だった。「週刊新潮」や「FOCUS」の生みの親で、陰の天皇と呼ばれていた。その昔、「新潮」にはじめて石川淳先生の作品を獲得したのは、編集者時代の齋藤氏だった。すでにして伝説の人物で、社内でもほとんどの社員はお目にかかったことすらない存在だった。
 だいたい、店にみえるお客様で、会社のトップに君臨されるような方の場合、かえって社員の人たちのほうが口もきいたことがないのが普通だろう。あったとしても、それは仕事の顔で、素顔をさらけ出すのは、のんびりとした自分の時間にかぎられるからだ。フジヤ・マツムラは、買い物はむしろ二の次で、リラックスしにみえる場所でもあったので、当然素顔がのぞいたり、おしゃべりに本音がまじることになった。
 齋藤氏は、中背だがずんぐりと丸い恰幅のよい体格で、いつもパイプをくわえてソフトをかぶっておられた。ソフトの下から、やわらかそうな長髪が、きれいに刈り揃えられて、のぞいていた。
 ゴルフ焼けのせいか色黒で、ぎょろりとした、ちょっと出目金のような目でぎろりとにらまれると、悪いことをしていないのに、すみません、とつい謝ってしまいそうな迫力があった。
 ご夫妻でみえたときに美和夫人が、ちょっと買い物に手間取ったことがある。といっても、大した時間ではない。待っている齋藤氏は、はじめのうちは黙ってパイプをふかしながら天井を眺めておられたが、だんだん癇癪がふくらんできて、しまいに黒い顔が赤く紅潮して、すなわち赤黒く変わると突然、おそいぞ、早くしろ、と怒鳴った。夫人は、そんなこといったって、とつぶやいて、困った顔をされた。美人が困惑した表情をうかべると、ほんとうに困ったように見えた。だが、もっと困った顔をしたのは相手をしていた釜本次長のほうで、とたんに腰が引けて冷や汗を流して、もう一度怒声が発せられれば、すぐさま走って逃げ出しそうな気配だった。美男子でなくても困って見えた。
 別の日に、砂糖部長が案内状の宛名書きに苦労していたので、のぞいてみると、筆で書きづらそうに「齋藤十一様」としたためたところだった。「齋」の字が特に画数が多いから、目立って大きくなってしまっている。
「なんだか、バランス、わるいですね」
 つい、口をすべらせた。砂糖部長は、一瞬むっとしたが、怒りはしなかった。
「前にチーフの古村女史が、齋藤さんの目の前でお名前を書いたら、おれの名前はそんな字じゃないぞ、とひどく叱られちゃってね。また怒らすとこわいから、きちんと正字で書いているんだ」
 といって、さびしく笑った。いい年をして叱られるのは、きっと情けないだろう。
 次に齋藤氏がみえたとき、たまたま上司がみんな出かけていなかったので、そう申しあげた。顧客によっては、若手なんかには相手をしてほしくないね、とあからさまに態度にあらわす方もあったからだ。齋藤氏は、
「いいよ、べつに年寄りを買いに来たわけじゃないから」
 といって普段と変わらぬご様子で進物の品を選ばれた。手際がよくなかったが癇癪玉は破裂しなかった。小僧っ子たちに怒ってみてもはじまらない、とおもわれたのかもしれない。あの出目金のような目で、じっとひとの包んでいる手もとをながめながら、そこにたたずんでおられた。パイプのけむりが、ゆるやかに立ち昇った。
〈うわさ話その2〉
 砂糖部長がいないときに限って、のし紙が必要になる。墨でまともな文字が書けるのは部長しかいなかったから、そういう場合はいつでも、おとなりのきしやさんに頼みに行った。字を間違えると大変なことになりそうだから、メモ用紙に「粗品・齋藤」と書いて、のし紙といっしょに女子社員に持たせようとした。齋藤氏は、ぼくの手もとをのぞき込んで、
「きみ、なんで、そんな難しい字を書くんだい?」
 と、不思議そうな顔できかれた。
「でも、齋藤様は、以前、この字じゃなけりゃだめだ、とおっしゃったそうですが」
 と、ぼくは、おっかなびっくり答えた。
「ああ、あのことか」
 と齋藤氏は、ちょっとにやっとした。
「あれは、きみ、きみんとこの女性がさも得意気に『斉藤』と書いたから、癪にさわって違うといったんだ。おれは『斎藤』でも、いっこうにかまわないよ」
 パイプから、けむりがもくもく出た。
「字のつくりが違うからですか?」
 齋藤氏は、にやにやした。
「そうじゃないよ。『斎』はさいと読むが、『斉』は、せいという字だ」
 編集者の見識というものがあるとしたら、ぼくはこういうことかとおもった。
「それでは、これからは『斎藤』と書いて、『齋』でなくてもよろしいのですね?」
 けむりを透かして、念を押した。
「そんなむずかしい字なんか、おれにだって書けるもんか」(ご冗談を)
 おどけた口調で、大きな目をもっと大きくむいたのを見たら、片方の目のほうが、より大きくて、もっと出っ張っていた。そして、パイプをくわえたまま、けむりのなかでかぶっていたソフトを脱ぐと、玉子のような頭が現れた。