志村喬先生

 志村喬先生は、奥様と銀座に来られると、帰りがけにかならずフジヤ・マツムラに立ち寄られた。
 先生は無口で、ほとんどご自分から話されることはなかったようにおもう。椅子に深く腰かけて、女子社員がいれたお茶をすすりながら、上司とあれこれおしゃべりされる奥様を、いつもにこにこ眺めておられた。「七人の侍」の「勘兵衛」が、こんなに穏やかな方だとは、ぼくもぜんぜんおもわなかった。映画俳優に見えないというわけではないけれど、どこかの社長か重役のように見えた。
 お住まいは、麻布狸穴の坂の途中のマンションにあった。タクシーで挨拶回りにうかがうと、いつも奥様が出ていらした。奥様は、おうちにいるときも着物姿だった。
 その日は、奥様がお留守だったのか、インターホンを押すと、ドアがあいて、目の前に立っていたのは志村先生だった。手を伸ばすと、ぶつかってしまうくらい近い距離だ。
 いま、ふり返ってみると、先生がなくなられるまでの5年間、ぼくは狸穴にご挨拶にうかがったわけだけれど、先生ご本人が出てこられたのは、このとき1回きりだった。
 ぼくは、展示会の案内状をお渡しすると、きまりきった口上をのべた。いいながら、自分でもせりふみたいで、なんとなくそらぞらしいとおもった。そのあいだじゅう、大島の着流し姿の先生は、直立して、まっすぐぼくの顔をみつめながら、にこにこしてきいておられた。発声練習のレッスンを受けているような気がした。
 ぼくの口上がすんだところで、志村先生のうしろの、奥の部屋から声がした。
「だれだあ? 客かあ?」
 殿山泰司さんだった。
(MAY 1978、と本の見返しにあるから、5月の何日かだったのだろう。ぼくは、当時渋谷西武B館地下1階にあった「書店・話の特集」で殿山泰司さんのサイン会に並んで、著書の「JAMJAM日記」(白川書院)を2冊買ってサインをもらった。1冊は自分に、もう1冊は矢村海彦君に上げるためである。なぜかぼくが一番最初で、タイチャンは、机が用意されているのに、膝の上に本をひらいて、サインペンでサインした。膝を組んでそこに本をのせたのだが、きっときちんと机に向かうのが照れくさかったにちがいない。ぼくの名前の下に「さま」とひらがなで書いた。もう1冊、矢村君のを書きはじめるころには、膝がぶるぶる震え出した。やはり姿勢としては無理があって、何冊も書くのはつらそうに見えた。矢村君の名前の下には、「さん」と書かれた。あとからの人のをのぞいて見たら、みんな「さん」になっていた。この本のなかに、志村先生が出てくる箇所がある。ぼくが訪問した日にも、こんなふうであったかもしれない、とおもえるので、ちょっと長いが引用しよう。
『オレは先輩の志村喬氏をオッサンと呼んでいる。戦前からの習慣である。きょうは昼すぎから狸穴のオッサンの家へ行った。べつに用事があったわけではない。用がないから行ったんだ。オッサンはシャベラナイ人間だしオレもシャベラナイ人間だから、ただ向い合ってすわり、時どきアアとかウウとかいってるだけや。オバチャンの出してくれるお茶をのみメシを食った。オバチャンとは志村夫人のことだ。暗くなってからオレは「帰るでえ」といったら、オッサンは「うん」といった。京都の太秦にあったオッサンの家を始めて訪れたのは、開戦直前のオレが25のときである。そのころ入手困難の酒を出してくれた。敗戦直後の混乱の時代には仕事の世話をしてもらったこともある。オレはお礼らしき言葉をいったことがない。泣ける。赤坂まで歩いて帰った。夜空へオレの涙が飛んだ』)