井上靖さんと詩集

 その小さなおばあさんがよちよちと店に入ってこられたとき、ぼくは森茉莉さんかとおもった。チャーミングで、可愛らしくて、ヴィヴィッドで、つい手をさしのべたくなるような、そんな方が入ってみえたのだ。森茉莉さんを知っているわけではないが、「贅沢貧乏」や「枯葉の寝床」の作者の写真をなにかで見たことがあって、とっさにそうおもったのだ。 しかし、その女性は、あとできくと、井上靖先生の奥様だった。
 ぼくは、なんにでも食わず嫌いが多いのだが、それは詩にたいしてもいえることで、人は買いかぶって、古今の詩はみんな読破しているでしょう、とお世辞をいってくれるけれど、とんでもない、大好きな何人かの詩人を、くりかえし舐めるように読んでいるだけだ。井上靖先生もそのお一人だった。
 「詩集 季節」(昭和46年 講談社)を偶然、新宿の三井ビルだか住友ビルだかの紀伊国屋書店で手に取った。友人がカルチャーセンターの申し込みをするのにつき合ったときで、ぼくは地階にあった書店で手続きがすむのを待っていた。それまでに目ぼしい小説は何作か読んでいたが、詩も書かれるとは知らなかった。それはぼくがまったく無知だったからで、井上先生は最初から詩人だったのだ。本をひらいたページに、たまたま「挽歌」と題する詩があり、ひらいたついでにそれを読んだ。

  あなたが亡くなってから五日目に、庭のくぬぎの最後の葉を落した風が吹きました。あなたが亡くなってから一カ月目に、小さい地震がありました。あなたが亡くなってから三十九日目に雪が降りました。その翌日も夜になって、また雪が落ちました。そしてその翌日は静かな冬の陽が一日中照り渡り、夕方には珍しいほど赤い落日がありました。庭に敷かれている白いまだら雪の向うに、木立が黒々と見え、その黒い木立を梳かして、火の粉をまきちらしたような夕映えの赤い空が見えました。縁側の籐椅子によってそれを見入っている時、私は初めてあなたがこの世にないことを信ずることができたのです。そしてその時初めて聞いたのです。喪に服している風景の中で、あなたのために鳴り続けている鐘の音を。

  もどってきた友人が人の顔を見て、なんで泪なんか浮かべているんだ、といぶかった。赤い眼をして恥ずかしいので、かわりにレジに並んでもらった。それからは、古本屋をのぞくときは、もっぱら井上先生の既刊の詩集をさがして歩いた。ぼくには信念のようなものがあって、ぼくが本当に必要とするものはかならず手に入る、とおもっている(神様が与えてくださる、といってもいいかもしれない)。少部数しか刊行されない詩集は、殊に古本屋の棚では学生にとって高価だったけれど、それまでの3冊がじきに揃った。「詩集 北國」(昭和33年 東京創元社 )、「詩集 地中海」(昭和37年 新潮社)、「詩集 運河」(昭和42年 筑摩書房)。そしてフジヤ・マツムラに入ったときにはもう1冊、第5詩集「遠征路」(昭和51年 集英社)が加わっていた。
 ある日、翌日、釜本次長が井上靖先生のお宅にうかがうというので、先生の詩集にサインをいただけないか、ときいてみた。いいよ、という返事なので、その晩、うきうきしながら 1冊を選んだ。やはり、第1詩集の「北國」にしよう。釜本次長に見せると、箱から取り出してしげしげ眺めた。汗っかきの人だから、いつでも掌が湿っていて、ページをめくるたびに指のあとが付くようでいやだったが、サインをもらってくれるのだから文句はいえない。きれいな本だね、といって次長は箱に戻した。
 それから、いつまでたっても本は返ってこない。先生のもとに預けてきたというが、どうにも長すぎる。「この詩集の持ち主はどんな人ですかって井上さんがきくから、80くらいのおじいさんといっといたよ」といった次長の言葉も腹立たしい。どうして、自分の部下です、といえないのだろう。
 しばらくして、「井上さんのところであの本、どこかに紛れこんで、なくしてしまったらしい」と釜本次長はいった。「だから、ぼくが代わりに、きみのほしい本を弁償するよ」 ぼくは、首をふった。そういうことなら、べつに構いません(そんな筈、ないじゃないか。いくら沢山の本に囲まれているからといって、井上先生がそんな無責任なわけがない)。
 ぼくは、しゃにむに歩きまわって、すぐにもう1冊「北國」を入手することができた。信念はあるにしても、自分でも信じられないほどラッキーだった。そのうちに、世田谷のお宅を訪ねて、持っている詩集全部にご署名をいただこう。そのとき、何気なく、例の詩集の一件をたしかめてやろう、とおもった。でも、結局、ぼくは行かなかった。そんなことをすれば、きっと、自分がいやになっただろう。
 井上先生は、銀座にもときどき見えられた。ご旅行用の帽子を注文されたり、イタリー製の靴に履き替えて行かれたりした。先生は無口で、ほとんどおしゃべりはされないで、奥様がもっぱらお話されていた印象があるが、どうだっただろう。森鴎外の「じいさんばあさん」という短編がぼくは好きだが、読み返すたびにお二人の姿を思い浮かべる。吉行さんが井上先生のことを、若い人が好きな方、という意味のことを書いているが、ぼくのほうを見てたえずにこにこしていらして、どぎまぎさせられたのはそういうことなのだろう。小柄だが精悍な体つきで、これから敦煌に行かれるところだったのではなかったか。柔道でつぶれた耳が日本の知識人には珍しく、ぼくは耳にばかり眼がいった。
 一枚の繪の竹田厳道氏が、こんな話をされたことがある。「ぼくが北海道を追われて失意の日に、井上先生は、男には人生で3度、うしろから斬りつけられることがある、といって励ましてくださったんだよ」 そうして、遠くを見つめるような眼をされた。「そこからひるまず立ち上がるのが男だといって」
 ぼくはその後、五月書房の「井上靖詩集」(昭和57年 限定千部のうち第59号)を手に入れた。うれしいことに、これには太い万年筆の文字で、井上靖とサインがされている。それにしても、とぼくはおもう。あのときの「詩集 北國」は、ちゃんと井上先生のご署名がなされて、いまごろきっと釜本次長の本棚に収まっているのだろうな。
(他の主だった詩集としては、次の4詩集が上梓されています。「乾河道」(昭和59年 集英社)、「傍観者」(昭和63年 集英社)、「春を呼ぶな」(昭和64年 福田正夫詩の会)、「星欄干」(平成2年 集英社)。なお、新潮文庫井上靖全詩集」には「北國」から「乾河道」までの4詩集と若干の拾遺が収められています)