ギンザプラスワン 3

 銀座5丁目、みゆき通りとソニー通り角―ギャラリー「オリーブアイ」の並び、いま工事中で建物が跡形もないところ―にフジヤ・マツムラはありました。戦災で店を焼かれ、かろうじて焼け残った近くのビルに移りました。もちろん、ぼくはまだ生まれてない頃のことで、先輩からきいたはなしです。
 戦前は、ただのマツムラという屋号でした。店舗をあけてくれた内外編物という会社が、いままでやっていたお店の名前だけのこしてほしいと条件をつけました。それがフジヤさんといったので、あわせてフジヤ・マツムラ(英語で書くと、フジヤ・アンド・マツムラ)になったそうです。イージー
 焼けのこったビル、といいましたが、実際には2軒のビルで、あいだに路地があったといいます。それを無理矢理ひとつにくっつけたものだから、上の階に行くにしたがってずれがひどくなって、継ぎ目が段になって、またそれを隠そうとして妙なスロープができあがっていました。
 5階ホールの展示会にみえた石川淳先生が、そこにつまづいて、あわや転倒しかけたところを、ハッシとつかまえたのはぼくです。あのとき、ぼくがそばにいなかったら、晩年の石川淳のあの大きな業績はなかったかもしれない、とたまに思い出しては自分をほめてあげます。
 そんな古いビルですから、トイレなんかも旧式で、お掃除のオバサンが、しょっちゅう、柄の先にゴムの吸盤のついた道具でパッコンパッコン目詰まりを直していました。
 ある日、黒眼鏡の作家が、「ト、トイレを貸してください」と寄りました。もちろん、お得意様のひとりです。トイレは、裏の廊下の一角にあり、廊下でサンモトヤマさんときしやさんとフジヤ・マツムラの3軒がつながっています(ひとつのビルに3軒が入っていたのですから、当然ですが)。用を足してももどるとき、よく間違えてよそのドアから入っちゃうなんてことがありました。それで用心のため、手をふくタオルを持って、廊下で待機しました。
 小用を足すとき、ひとによって、先に水洗のボタンを押すことがあるようです。ドアが閉まってすぐ、水の流れる音がしたので、あ、ヤバイかな、ととっさにおもいました。どうもこの日は、自分が使ったときも、水の流れがわるかったからです。
 ウッ、という、うめき声とも溜息ともつかない声がきこえました。しばらくして、ドアがあいて、ちょっと、と声がかかりました。ぼくは、ハッといいながら、タオルを差し出しました。黒眼鏡の作家は、便器を指して、
「こ、このトレイは、よ、よくない」と、静かにいいました。
 どうもいつものくせで、便器に向ってファスナーをおろしたところで水洗のボタンを押されたようでした。こういうときに限って、なかなか終わらないんですよね。そのうち、アサガオいっぱいになった水が、端からあふれ出したのでしょう。これはいけない、とおもっても、用がすまないうちは逃げるわけにもいきません。すこしずつ、足をよじって、遠ざかろうとした努力もむなしく、非情にもつぎからつぎへとあふれ出る水は、黒眼鏡の作家の真新しいスニーカー(エルメスのように見えましたが、いまからでもそうでなかったことを祈ります)に降りそそいだのでした。
 黒眼鏡の作家は、もう一度、「こ、このトイレは、よ、よくない」といいました。
 ぼくは、わあ、大変、とおもいながらも、おかしさをこらえるのに必死で、奥歯を固くかみしめていました。黒眼鏡の作家はタオルで手をぬぐいましたが、きっと足のほうはそれどころじゃなかったでしょう。
 店にもどって、ひとわたり見まわすと、だれにいうともなく、「こ、ここのトイレは、よ、よくない」とつぶやくと、まっすぎに店を出て行かれましたが、そのあいだ、ずっと、「こ、ここのトイレは、よ、よくない」と、つぶやいていました。
 1960年代から70年代にかけて学生生活を送ったものにとって、この作家は一種のヒーローであり、スーパースターでした。いまでも、本棚のサイン入りの初版の「エロ事師たち」は、ぼくの大切な一冊です。