国の守は狩を好んだ。


夷齋石川淳、といっても、ご存じない方が多いでしょう。昭和を代表する小説家のひとりです。これは「紫苑物語」の書き出しですが、「焼跡のイエス」という短篇も、ぜひ読んだらいいとおもう。ある日、ふと、「国の守は狩を好んだ」というフレーズが、フランス語で頭にうかんで、そこからひとつの小説ができあがったというからすごいですよね。
ぼくは、石川先生がまだ初台に住んでいらしたころから、ご挨拶にうかがっていた。土の塀で、門には格子戸がはまっていた。それは、いかにも、石川淳が住んでいる、といったたたずまいのお邸でした。門柱のボタンの呼び鈴を押して待っていると、突然、庭のどこからか痩せた犬が飛びだしてきて、なにしに来た、といわんばかりに吠えたてます。それこそ、体じゅうをふるわせて、歯をむきだして威嚇してくるので、これはいい番犬だな、とおもわず笑うと、またそれが気に障るのか、いっそう激しさを増します。この犬は、何度会っても、とうとう慣れるということがありませんでした。
そうしてしばらく吠えられていると、あら、とかいいながら夫人が出ていらっしゃいます。あるとき、ついうっかり、このワンちゃんは先生似なんでしょうか(すでに伝説の小説家だった石川淳のイメージは、おっかないひと、だった)、と口をすべらすと、夫人は一瞬絶句したあと、「アッハッハ」と笑い出して、「そういっとくわね」とさも愉快そうに、ハスキーな声で(ガラガラ声というひともあるが)いわれました(ぼくは、いつも、ひとこと多いんですよね)。
庭にススキのはえた初台のお邸から、南青山のマンションに移られて、せっかくの情緒が失われたように感じましたが、都心のマンション住まいは奥様の夢だったそうです。先生はどこかで、「棟割長屋ですよ」とおっしゃっているが、奥様の希望どおりにされて、まんざらでもなかったのではないでしょうか。
前回、展示会場の足もとがわるくて、転びそうになった石川先生をハッシと受けとめたはなしをしましたが、それは1980年ごろのことです。先にお友だちとみえた奥様と、エレベーターに乗ったとき、「岩波書店から、先生の選集が出ましたね」と申しあげると、「あら、あなた、勉強してるわねぇ」と、感心した口調でいわれました。きっと、サルだとばかりおもっていた相手が、ヒトだったとわかって、驚いたのでしょうね。「勉強してるわねぇ」という、大時代的な言葉のニュアンスが、なんだかおかしくて、この方はやはり作家の奥様なんだな、とあらためておもいました。(「紫苑物語」の収録された第5巻は、1980年3月7日第1刷発行になっているので、だいたいの年代がわかる。ぼくの記憶は、そのときどきの本にむすびついてることが多いせいで、そこからそのときの情景がよみがえることもある。たとえば、この日の石川淳夫人活様の服装は、ブルーのシャツブラウスに白のスラックス、ピンクか赤のフレームの眼鏡をかけて、肩からエルメスのショルダーバッグをさげている。このバッグは、布製で、色はアイボリー、底からショルダーにかけての部分が皮で、それはワイン色です)
展示会場の隅にお茶席が設けてあり、散歩用のスラックスを選びおえた石川先生は、そこにすわって、お友だちとワイワイいいながら買い物されている奥様を、黙って眺めていました。先生は、じっと、ひとことも口をききません。そして、ときどき、遠くを見つめる眼でぼくのほうを見ましたが、なんだか先生のまわりにバリアが張られているようで、ぼくはおっかなくて、近づきませんでした。
このとき、ごいっしょだったお友だちの、亡くなったご主人への追悼記が、石川先生にあります。

安吾が消えてなくなったあとには、もし気やすめが必要ならば、まあ竹の棒でも一本立てておけばよい。さいはひ、当人が書き捨てた反故の中に、ちょうどまぐれあたりに、墓碣銘、いや、竹の棒にでもきざむに適した文句がある。
「花の下には風吹くばかり。」
石川淳安吾のゐる風景」

これも伝説の無頼派作家・坂口安吾の未亡人で、バー「クラクラ」マダム、坂口三千代様がそのひとですが、「それはまた別の話」。