文藝手帖の中身

 手もとに1983年(昭和58年)の文藝手帖があります。丸谷才一先生が、どこかに、この手帖がいちばん使いやすい、と書いておられたのをみて、以来まねして使っています。同様に、万年筆のインキはペリカンのロイヤル・ブルーがいい、と山口瞳先生がおっしゃれば、さっそくロイヤル・ブルーを用います。前賢の余慶にあずかるのが、ぼくの流儀で、もしそれで不都合があれば、はじめて自分でさがします(1983年は、ぼくの結婚した年で、引っ越しのどさくさでそれまでの手帖をみんな紛失しました。引っ越しは、ほんとに物がなくなるようで、ぼくの場合、たいてい本がなくなります)。
 この手帖をひらいても、ほとんどなにも書かれていません。任意のページをながめてみると、ところどころに、出、とか、オソ、とか、オール、とかあるのは、勤務のことです。休日出勤と遅番と、早出で残り当番を表しています。当時はぼくも割合記憶力がよく、なにも書かなくてもおぼえていられました。たまに、「36号山内さんファミリア 電話番号」とあるのは、借りてた駐車場で向かい側に停めた山内というひとのくるまに、ぼくの車をぶつけたということです。相手の車は、ウインカーのプラスチックがこわれただけでしたが(このカバーは、3千円)、ぼくのボロクソ・ワーゲン・ゴルフはフェンダーがへこんで、バンパーがはずれて、大損害でした。「8/4.5.6大上荘4名」は、西伊豆の民宿です。「5/13代休 試験 免許証」は、運転免許の取得です。学生のころから、かならずだれか車をもった友人が乗せてくれていましたが、だんだんみんな、自分のことが忙しくなってきて(そりゃあ、恋人や奥さんのほうが大事でしょう)、自分で運転するしかなくなったわけです。1月末から、時間をやりくりして練習に通い、5月11日に「卒業証明書交付」されています。免許を取ったばっかりで、すぐに伊豆高原に行っています(「7/22.23.24東急イン」)。
 だれかが、ぼくの手帖をのぞいても、こんな具合で、きっと、なんの意味だか、わからないでしょう。この手帖の付録に、「寄稿家住所録抄」があります。版元の文藝春秋に原稿を寄せている方々の氏名が、あいうえお順に並んでいます。これは、一目瞭然、だれの目にもわかります。「(昭和57.8.20 現在)」となっていますが、ぼんやり名前を目で追っていたら、フジヤ・マツムラの顧客だった方が結構いらっしゃるのです。もちろん、靴下やハンカチをお求めいただいても、ご住所とお名前を頂戴しましたので、1回きりの方もいらっしゃるでしょう。それはそれとして、お名前を列挙してみたら、昭和50年代はじめ頃の、銀座の舶来洋品店の性格のようなものが、浮かび上がるのではないでしょうか。3千人からの名簿がありましたが、一時はその全部を覚えていました。さて、ぼくは、どれくらい正確におぼえているでしょう。それでは、アから。敬称略。
 〈ア〉
 阿木翁助 安達瞳子(とう、は日偏で、これとは違いますが、ぼくのパソコンにはない字です)
 會田雄次 青島幸男 秋山庄太郎 秋山ちえ子 朝倉摂 有吉佐和子 (イからは、次回に)