鎌倉会長とスーツ

 ぼくが学生のころは、アイヴィ・ルックが全盛でした。高校のとき、放課後、受験を控えた上級生の補習授業に参加させてもらうと(それくらい勉強家だったこともあります)、机のなかに上履きのスニーカーがはいっていて、右のかかとにVAN、左のかかとにJYNと書いてありました。ぼくは、それをバンジュン(伴淳。俳優の伴淳三郎)と読みました。そして、変な先輩がいるんだなあ、とおもいました。 しかし、ぼくがそのとき知らなかっただけで、ヴァンとジュンはアイヴィ・ファッションの二大巨頭だったのです。(だらだら長いだけですから、後半の『スーツは、』ではじまる部分から読んでいただいたほうがいいかもしれません。ぼくならそうします)。
 ぼくは大学生になると、なぜか突然、アイヴィに変身しました。やっぱり、ヴァンが一番です。紺のブレザーにグレイのパンツが定番でした。シャツもヴァンで、ブルーか白のオックスフォード(カラー37センチ、裄80センチ。いまでも、サイズは変わりません)のボタンダウンしか着ません。合わせる靴は、もちろんリーガル。ネクタイは、レジメンタル・ストライプ一辺倒でした。おのずと『平凡パンチ』の大橋歩さんの表紙の青年のような髪型をするところですが、残念ながらこれは似合いません。青山通りを歩いていると、『メンズクラブ』という雑誌から写真を撮らせろとよくいわれました(あきらかに自慢です) しかし、大学に長くいるうちに、いつまでもヴァンじゃないな、とおもいはじめました。ヴァンのシニア版にケントがありました。ちょっと、大人っぽい雰囲気です。ケントにかえてみることにしました。なんだか、すこし年をとったような気がしました。実際、本人だけがいつまでも変わらないつもりでいるだけで、友人たちはとっくに社会人になっていました。
 そのうちに、世界中が席巻されたパンタロンの時代がやってきます。これは猖獗をきわめるペストのような現象でした。一夜にしてみんなラッパズボンです。一過性のものかとおもっていましたが、なかなか根深く浸透して、アイヴィの牙城もあわやという惨状を呈してきました。なんたって、あの007のロジャー・ムーアまでパンタロンで登場してきたのですから。恐れていたように、ケントがとうとうパンタロンを出してきました。ぼくはまた、ヴァンにもどりました。からだが軽くなったような気がしました。きっと、ケントなんか、格調ばかりで、ぼくには似合ってなかったのでしょう。
 そのあとでイソムラショウトクといわれる、ワイド・ラペル(上衣の衿幅がやけに広いスタイル)の時代が到来して、ネクタイの幅も金太郎の腹掛けくらい広くなったことがありました。こうなると、猫も杓子も金太郎です。ラッパズボンの残党と、金太郎の一騎打ちのあいだで、少数派は心細いおもいをしていました。
 ぼくが長い学生生活にピリオドを打って、社会人になったのはそのころです。面接に着ていったのは、ヴァン・ジャケットのグレン・チェックのスーツでした。こういう業界の人たちは、そのころ、ヨーロピアン・スタイルのスーツを着ていることが多かったようで、面接で、質問はありますか、ときかれて、「ぼくは、トラッドな洋服しか持っていませんが、それでもかまいませんか?」ときいたのをおぼえています。
 スーツは、シーズンごとに新しいものを一着買います。ですから、毎年、二着ずつふえてゆく勘定になります。しかし、当然、古いものからへたってゆきますから(五年はかかります)、いつでも持っているスーツの数は変わりません。ぼくの場合、毎回同じものを選びますから、その年によって微妙に色の感じや質感が異なるだけで、ほとんど見分けがつきません。上衣とパンツに同色の糸でしるしを付けたりして工夫しますが、傍目にはまったく変わらないように見えます。ぼくのスーツは、どれも無地のチャコール・グレイなのです。
 先代の未亡人は、明治四十三年生まれです。鎌倉に住んでいるので、鎌倉の会長と呼ばれていました。お茶の先生で、S流の幹部でもあります。いつも着物で、八幡様のお札を届けに、毎月上京してきます。あるとき、ぼくと目が合うと、ちょっとちょっとと手招きをして、カーテンのかげに呼びました。
 「あんた、そのスーツ、いくらするんだい? 買ってあげるから、いってごらんよ」
 そういって、帯のあいだから、財布を取りだそうとしました。とっさに、鎌倉は、ぼくがいつも同じスーツでいるから、かわいそうになって買ってくれるつもりなんだ、とおもいました。いえ、とんでもありません、といってその場から逃げました。あとで釜本次長にその話をすると、「馬鹿だなあ。ぼくなんか、前にそういわれたとき、ありがとうございますって、いつものよりうんと高いの買ってもらっちゃったよ」。