大阪話

 昭和52年9月初旬、ぼくは大阪なんばのホテル南海にひとりで宿泊していた。
 残暑のきびしい年で、ぼくは夜、遊びに行くのにバミューダパンツをはいていた。ちなみにいうと、このパンツはコードレーンという柄でVANのパンツだった。それだけでずいぶん昔のような気がする。それにラコステ(もちろん、フランス製のだよ)の白のちょうちん袖(筒袖がほとんどのころで、ちょうちん袖はまだ珍しかった)のポロシャツを着て、スニーカーは白のトップサイダー(アメリカ製、と断るのもイヤミだけれど)だった。そして、フラッシュの付いていないニコンFのブラックボディを首からさげていた。ほとんど雑誌「ポパイ」のページに出てくるモデルの格好そのまんまである。
 なぜこんな格好をするかといえば、わざわざ重いおもいをして東京から持ってきたから一通り着てみたいだけのことで、はじめての大阪は勝手がわからなかったから、そんな格好で心斎橋をただ行ったり来たりしてみたり、道頓堀や千日前界隈の古本屋を一軒残らず覗いてまわったりした。そして適当な喫茶店に落ちつくと、買ったばかりの古本や雑誌をながめてひとりぼっちの夜の時間をつぶした。ぼくはアルコールは駄目なかわりに、喫茶店に関しては嗅覚が発達していて、どこの街でも落ちついてくつろげる店を探し出すのがうまかった。
 御堂筋では、ときどきカメラをかまえて、歩道の街路樹を撮ったりした。通りすがりのカップルの女性のほうが、こんな夜でも写るのかしら、と連れの男にささやいたが、いくらニコンでもこんなに暗くちゃ写るわけないじゃないか。なんとなく浅井慎平っぽい気分を味わっていただけだ。ぼくはすでに就職して社会人だったが、頭は依然パープリンで、人間がフーチャカしていた。まだ学生のしっぽが残っていて、なんだかアルバイト気分だったのだろう。会社なんかいやになったら、いつでもやめてやろうとおもっていた。そんなだから、ウエストコーストの風がミナミの街に吹いたとしても、ぼく的にはぜんぜんおかしくないのだった。
 話はもどるが、大阪に着いた最初の晩、シャワーを浴びてさっそく街にくり出した。ホテルのフロントの、それから20年にわたっておつき合いのはじまるホテルマンが、まるでこれから海岸にでも行くような格好をして出かけるぼくを、無言のまま目を丸くして見送った。自動ドアがあいて外に出るとき、ぼくの耳の奥ではイーグルスの「ホテルカリフォルニヤ」が流れていた。
 もう夜もおそい時間で、せっかく出た街は、飲み屋を除いてほとんどの店が閉まっていた。ぼくは仕方なく、ホテルのそばにある高島屋のまわりを、グルッとひとまわりしてみた。そして屋台のうどん屋が一軒、まだ営業しているのを見つけた。もしかすると、一晩中やっているのかもしれない。ラーメンの屋台はよくあるが、うどんの屋台というのははじめてだった。よしずで歩道の一角を囲って、長椅子をいくつか並べてあったが、テーブルはなかった。先に食べているひとは、長椅子の端に腰かけて、どんぶりを手に持っている。ぼくは別にお腹が空いていたわけではないけれど、においをかいだら食べたくなって、長椅子の一つに腰をおろした。
「おにいちゃん、なんにするのん?」
 うどん屋のおじさんがきいた。
「たぬきそば」
 ぼくはいった。
「はいな」
 そばはすぐに出来た。どんぶりを手渡されて、よく見ると、油揚げがのっている。たぬきそばを注文したのに、きつねそばが出てきた。東京のもんだとおもって馬鹿にしてやがら、とおもったが、ぼくはだまってきつねそばを食べた。あした、大阪支店のひとに会ったら、この話をしてやろうとおもった。
 翌日、挨拶回りをおえて高島屋にもどってくると、ぼくの歓迎会が待っていた。心斎橋のどこかで食事をしているとき、ぼくはゆうべの一件を思い出して、笑いながら話し出した。しかし、だれも笑わなかった。大阪では、うどんに油揚げがのっているのがきつねで、そばに油揚げをのせたのはたぬきだといった。
「でも、東京じゃあ、たぬきっていったら、揚げ玉ののったやつなんだけど」
「揚げ玉ってなんや? ああ、天かすのことかいな。天かすののったのんもあるで。でも、あれは、呼び名がちゃうなあ」
「なんていうの?」
「あれはな、ハイカラそばいうんや」
 いくらパープリンのぼくでも、ハイカラそばという語感はいやな気がする。きれいな青でも、ぐんじょう色というと、なんだかなー、とおもってしまうのに似ている。ウエストコーストの風は、どうやらミナミには吹いていないことがわかった。