有金君 その1

 有金君とは、1回だけいっしょに自動車外商に行ったことがあった。昭和58年のことだ。
 ちょうどぼくが運転免許取り立てのときで、碧南市の帰りに、知多半島有料道路の途中で交替して、運転させてくれた。
 当時、この道路はまだ新しく出来たばかりで、あまり利用する車がなかったのでずいぶん空いていた。というより、ごくたまにしか車が通らなかった。それで、有金君も安心して運転をまかせる気になったのだろう。なにしろ、ほんのひと月前に免許を取得したばかりで、以来路上はおろか、1回も運転したことがなかったのである。
 ぼくは、この年はなんだか大へん忙しい年で、正月あけからてんやわんやしていた。その上、2月から田町にあった三田自動車練習所(通称、三田練)へも通いはじめた。仕事の始まる時間がおそかったから(タイムカードは10時半)、朝一番の8時の1回目に乗れば会社に間に合った。学科は有給休暇がたまっていたから、大目に見てもらってのびのび取った。
 有金君のおやじさんは、なかなか顔のひろい人で、三田練の副所長とも知合いだった。おかげで、ぼくは息子の有金君につれられて三田練に行くと、その副所長さんに紹介してもらい、入学金はまからなかったけど学科の教本を一式ただで貰うことができた(免許が取れたあとで、イギリス製の麻のハンカチセットを御礼のつもりで差し上げたら、副所長は真っ赤になって受け取ったが、すぐに足もとに落とすように隠してしまった。なにか便宜を計ったと誰かに勘違いされたらいけない、ととっさにおもったのかもしれない)。
 三田練では、30歳をこえたら最低何時間は乗せなくてはならぬと規定があったようで、そこそこの腕前だったせいか、どうやら目一杯乗らされたような気がする。まるまる3カ月かかってしまった(それでも車庫入れは下手だ)。そのかわり、学科は得意で、仮免に移る試験では100点を取った(学科の授業を受けたとき、すぐうしろにサングラスをかけ、野球帽を目深にかぶって目立たないようにしているきれいな女性がいたが、萬田久子さんだった)。
 4月になると、前から申し込んでいた公団住宅の空き家募集に当選して(3年かかった)、5月から入居しなくてはならなくなった。教習所とは別に休暇を取って、新宿にある公団センターの説明会に顔を出した。書類を揃えたり、審査を受けたり、当選してからがけっこう面倒だった。
 5月のはじめに三田練を修了すると、すぐに休暇を取って本試験を受けて、めでたく免許証が交付された。もう逆さにしても休暇なんか残ってなかった。
 そのあと引っ越しの準備をしたり(これは本が何十箱にもなって、それだけでうんざりした)、友だちを通じてその友人たちに乗ってる中古車を譲ってもらう算段をしていちいち見に行ったり(ミニからベンツまであった)、4年越しのつき合いの婚約者だったいまのカミさんといっしょに住む手筈を整えたり(だって、それが入居の条件で当選したんだもの)、てんてこまいしているときに外商の話が持ち上がった。
 有金君は社長に、1回でいいですから、といってぼくと行かせてくれるように頼んだ、といった。
「それって、迷惑でしたか?」
「ううん」(とんでもない。そういってもらえるなんて、うれしいじゃないか)
 有金君は、経理に交渉して、ぼくも乗れるように若葉マークを買ってきてくれた。東銀座のガソリンスタンドの矢野新で磁石式の若葉マークを二組(前後2枚で一組分)購入して、自分の車を持ったら使うといいですよ、ぼくからのプレゼントです、といって一組ぼくにくれた。有金君は矢野新に始終寄っているからずいぶんと顔がきくようで、サービスしなけりゃもう入れに来てやらないぞ、と脅かして、一組の値段で二組ぶんどってきたんですよ、といってはしっこそうに笑った。
 (つづく)