有金君 その2

 知多半島有料道路の途中で有金君と運転を交替することになって、磁石式の若葉マークのステッカーを車の前後に貼ったとき、ちょっと胸がどきどきしていた。1台の乗用車が、路肩に停めたぼくらの乗ったセドリックのバンのわきを通り抜けて行ったあとから、ぼくの運転する車は恐る恐るといった感じで走り出した。そのときの車はマニュアルシフトで、教習所でもマニュアルで教えられたから、走るのには不便を感じなかった。ただ、坂道発進が実は苦手だった。
 やがて知多半島道路がつきると、そこから市内に通じる高速道路のはじまりで、接続地点に料金所があった。この料金所が高速につづくなだらかな坂の中途にあったから、料金を払って切符を受け取ると、習い覚えた坂道発進を最初に試す機会がやってきた。シフトを1速に入れて、半クラッチ状態でアクセルをややふかした。そしてつながったとおもったから、手もとのブレーキレバーをそっと外すと、車が坂をすーっと戻った。ぼくはあわてて、すぐにブレーキを踏んだ。うしろの車がけたたましくホーンを鳴らした。
「あわてないで、だいじょうぶですから」
 有金君がいった。ぼくは、うんと頷いたが、できることならここで交替したい、とおもった。一瞬もたもたしたら、また、うしろの車が短くホーンを鳴らした。ぼくは、もう一度、坂道発進を試みた。今度はうまくつながって、よたよたと車が前に出た。そのままじょじょに速度を上げて走行車線に進むと、
「アクセル、もっと強く踏んでください」
 と有金君にいわれた。そのとおりにすると、あれよあれよという間に速度が80キロに達した。
「そのままそれ以上踏み込まないで、80キロをキープしてください。スピードが上がるようだったら、すこしだけアクセルをゆるめるといいですよ」
 教習所では経験したことのない速度の車のハンドルを握っているとおもうと、腕も肩もことこちになった。うしろにいた車が追い越し車線を走ってくるのが、フェンダーミラーに見えた。そして、追いついてぼくらの車に並ぶと、窓ガラスを下ろしてこちらをじっと見ている気配がした。気配がした、というのは、ハンドルを握ってまっすぐ前を向いているだけで精一杯で、首を横に振って確かめることができなかったからだ。誰が見たって、一心に前をにらんで固まっている運転手は、初心者に見えただろう。それでなくたって、若葉マークが貼ってあるのだから。
 チェッと舌を鳴らすのがきこえたような気がした。つぎの瞬間、並んでいた車は目一杯アクセルをふかして、一気にぼくらを置き去りにした。黒塗りのでかいベンツだった。
「気にすることないですよ。よくあることです」
 有金君が、涼しい声でいった。
 市内まで戻ってくると、また一厄介だった。今度は、高速を降りて一般道に出るのに、出口のところで混雑していてなかなかタイミングがとれなかった。有金君が助手席の窓ガラスを大きく開けて、そこから半分身体を乗り出すと、ぼくの車を入れてくれるように、大きな声で呼びかけてくれた。なんとか一般道に合流して、マナーのわるさは一二を争うといわれる名古屋市内を、有金君の指示で車線を変えながら、宿泊先の東急インまでようやく辿り着いたときには、ぼくはもうくたくただった。
「最初にしては上出来ですよ。ぼくは免許とって9年になりますが、それでもいまだに、1日に1回はひやっとすることがあるんですから」
 ぼくと替わって立体駐車場に車を入れるために、運転席に乗り込もうとしている有金君の背中を見ると、ワイシャツが汗でびっしょり、ぼくよりもっと濡れていた。
(つづく)