O氏のこと

 O氏は、ピカ一洋品店の顧客だった。白のスーツを着て銀座を歩きたい、といってピカ一の番頭さんを困らせたことがある。O氏が銀座に顔を出すのはたいてい夜だったから、そんな色のスーツを着て歩いていたら、ヤクザと間違えられかねない、というのがその理由だった。
 O氏は、いつも内縁の奥様といっしょだった。内縁関係で通していたのは、二人ともバツイチだったので、割と格式の高そうなO氏の側の親族が、O氏の再婚を喜ばなかったからのようだ。奥様は、気だてが良くて、いつも頬笑んで寄り添っているような、慎ましい女性だったのに。 
 しかし、ある日、O氏は別の女性と来店して、そのひとにコートをプレゼントした。価格は、50万円。担当は荻馬場さんだった。
 O氏は、その日を境にぷつっと見えなくなった。買い物があった月は、いつでも月末に奥様といらしてカードで精算されていたのだが、ほかの女性に買って上げたものの支払いなんか、奥様の前でできるわけがない。入金がなければ、当然、ご自宅に請求書を出すことになるが、荻馬場さんは出さないでいた。彼女にプレゼントしたことが奥様にわかったら、O氏も困るし、奥様にも悲しい思いをさせるから、というのが荻馬場さんの言い分だった。
 ところが、そうこうするうちに、例の「うんこ退職事件」が持ち上がったのである。荻馬場さんはさっさと退職してしまい、何カ月も放り出してあったO氏の焦げ付きだけが残った。そのお鉢がぼくにまわってきた。問題は、たいてい、ぼくにまわってくる。
 O氏は、医療器具の会社を経営していた。メスとか注射針とか、その他いろんな医療器具がもうかるのは、どこかで戦争が起きたときだ、とO氏はいった。大量に消耗するからだ。
「戦争がはじまると、私の会社は大もうけできるんです。万歳三唱ですよ。悪魔のようでしょ。でも、しょっちゅう戦争なんかあるわけではないし、ふだんはスプーンやナイフ、フォークなんかを主にこしらえています」
(つづく)