O氏のこと その3

 ぼくは、西日暮里駅で電車を降りた。晩春の暑いくらいの日だった。住所と地図をたよりに、O氏のお宅を探して訪問するためである。直接会ってご相談するしか手がないようにおもえたからだ。
 いくつかの路地を曲がって、すぐにその住所は見つかった。しかし、最初、そこが探している住所かどうか、はっきりしなかった。家があるべきところに、家がなかったからである。ぼくは、行ったり来たりしながら、よその家の郵便受けの所番地を調べて、間違いなくこの空き地がO氏の住所であることを確信した。だが、 いったい、これはどうしたことだろう。空き地だなんて。
 斜め向かいに、ガラス戸を開け放って仕事をしている家があった。ぼくは、トボトボとその家の前まで歩いて行った。畳屋さんだった。外の明るさと対照的に、暗い土間がひろがっていた。
「こんにちは」
 ぼくは、土間の一角で畳を縫っている職人さんに声をかけた。職人さんはふたりいて、ひとりが黙ったままふり返った。口にタバコをくわえていた。
「ちょっとおうかがいしますが、あそこの空き地はOさんのお宅があったところでしょうか?」
 タバコをくわえたまま、なにもいわずに、その職人さんはもうひとりを見た。下を向いて仕事をしていたもうひとりが頭を上げ、くわえタバコを見てから、ぼくのほうを見た。こちらが親方らしかった。ぼくは、軽く会釈した。
「Oさんがどちらに移られたか、ご存じないですか?」
「さあ。気がついたら更地になっていたから、わからないね」
「工場もここにあったのですか?」
「よく知らない」
 ぼくは、えーと、といいかけて、ふたりがうつむいて、もう仕事にもどってしまったのに気がついた。これ以上、なにも質問されたくない、という意志のようなものが、背中にみなぎっていた。
「どうも、ありがとうございました」
 ぼくは、涼しい日陰から、また強い日差しのなかに出た。あたりがまっ白になった。
 駅までの道を戻りながら、引っ越したなら住民票も移しているかもしれない、という考えがふと浮かんだ。それなら、区役所に行けば、移転先の住所がわかるかもしれない。
(つづく)