銀座百点 7

「銀座百点」創刊500号には、巻末に年表がついている。
 これを見ると、現在「銀座サロン」という題でゲストを迎えて(テーマのある)雑談をしている頁が、もともとは「演劇合評会」だったことがわかる。
「演劇合評会」は、創刊した昭和30年(1955)8月からはじまるが、当初のメンバーは久保田万太郎戸板康二、それに池田弥三郎であった。
 それでは、巻末年表から、「銀座サロン」に関する記述だけ拾ってみることにする。
 昭和30年(1955)10月、「演劇合評会」に円地文子加わる。
 昭和37年(1962)1月、「演劇合評会」に車谷弘が加わる。
 昭和38年(1963)5月に久保田万太郎が死去。8月、「演劇合評会」の名称は「銀座サロン」と変わる。
 昭和42年(1967)5月、池田弥三郎がいったん「銀座サロン」のレギュラーを退く。
 昭和43年(1968)12月、瀬戸内晴美が「銀座サロン」にセミレギュラーとして加わる。
 昭和44年(1969)3月、「銀座サロン」に安藤鶴夫がレギュラーとして加わる。9月、安藤鶴夫「銀座サロン」3回登場したのみで急逝。
 昭和53年(1978)4月、車谷弘死去。8月から「銀座サロン」に池田弥三郎復帰(80年2月号まで)。
 昭和55年(1980)1月、「銀座サロン」に吉行淳之介がレギュラーとして加わる(90年2月号まで)。7月、「銀座サロン」に小田島雄志がレギュラーとして加わる。
 昭和57年(1982)7月、池田弥三郎死去。
 昭和61年(1986)11月、円地文子死去。
 平成2年(1990)2月、吉行淳之介「銀座サロン」を退く。同3月、「銀座サロン」に村松友視が新レギュラーとして参加。
 平成5年(1993)1月、戸板康二死去。
 平成6年(1994)7月、吉行淳之介死去。
「銀座サロン」に関する記述は、吉行淳之介の死で終っている。ぼくは、ああ、とおもう。ああ、そうか。そうなんだな。ふだん、すっかり忘れているが、吉行さんはもういないんだな。
 ぼくは、吉行淳之介が好きで、それもたいそう好きで、「銀座百点」の新刊を手にすると、いつもいちばん最初に「銀座サロン」を読んだ。吉行さんは、人間がおしゃれで、知的で、ユーモアにあふれていた。もちろん、掌を握れば闇ができるように、人は明るい部分だけでできているわけではない。
「どうしていつも、そんなふうにご機嫌でいられるのですか?」
 吉行さんは、酒場で(だったかな)そうきいた相手に、真面目に答えた。
「機嫌のわるい日は、人に会わないから」