銀座百点 号外21

 たまたま本屋をのぞいたら、「田村隆一全集」第2回配本第5巻がでていた。ぼくは、田村さんの本はごく初期の詩集2冊を除き全部持っている。しかし、未刊行のエッセイは、雑誌をほとんど読まないぼくにとって未知の領域だ。全集が有難いとおもえるのは、こんなときである。
「世界から友情が失われてーーアベル・ボナール『友情論』」と題するエッセイが440ページに載っている。


 たまたま月刊『諸君!』六月号を読んでいたら、山本夏彦氏がボナールの『友情論』(中公文庫)に言及していて、「私がよく記憶しているのはアベル・ボナール(一八八三ー一九六八)である。......モンテーニュパスカルの流れをくむモラリストで、モラリストは人性研究家と訳されているが、私は人間見物人と訳している」とあった。
 見物人は舞台に登場しない。客席の一隅から目を光らせ、耳をそばだてている。しかも目利きでなければならない。役者の台詞が口から出る前に、優れた見物人は心の中で無声で発している。
 山本氏は当代きっての見物人だから、そのおすすめに従って、本書を読んだ。


「普通、友情という名で呼ばれるものは、習慣や同盟にすぎない。......けれども人は互いに習慣によって結ばれているのみならず、また利害によって結ばれている。」


 では、真の友情とは何か?


「はるかに功利を超越している。友達同士は互いにいつでも相手を助けようと待ち構えていないわけではない、けれども彼らを結びつけるのはそのようなものではない。一方の者は相手を困窮から救い出すために自分の財産を惜しげもなく使いはたそうとも、また相手を救うために生命を賭けようとも、自分のしてやったすべてのことをすぐに忘れるべきであるばかりでなく、そうした尽力を受けた者もまたその尽力をきれいさっぱりと忘れ去ってこそ完全な友情である。......さればひとりの友を見いだすことは、ありふれた人々の間からたぐい稀な人々の代表者を発見することである。外見上の高い階層に属すると低い階層に属するとを問わず、その真価において最高の人に出会うこと、一言にしていえば、人間を見つけることである。」


 ぼくが自分の人生でもっともひどい状況におかれていたとき、手をさしのべてくれたのはわさびさんただ一人だった。しかも、それは、ボナールの「友情」なんてのとはずいぶん違ってみえた。間違えるのを恐れずにあえていってみれば、それは「人間性」である。くすぐったい「友情論」を通過しなくても、人は「人間を見つけること」ができる。
 ところで、ぼくはわさびさんにちゃんとお礼をいっただろうか(「きれいさっぱりと忘れ去って」いたらごめんなさい)。その節は、ほんとうに有難うございました。