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 社報に「開眼 なんでも書評欄」というコラムのコーナーがあって、毎月、順番に社員がなにか書くことになっている。その順番がまわってくるので、適当な本を選ぼうとおもい、二階にあがって本棚をのぞいてみたら、いちばん上に村上春樹の「村上ラヂオ2」が載っていた。2011年秋に、やはり社報を書くときに援用しようとしたから、そのときからずっとそこにあったのだろう。ぼくは、いい加減書いてからボツにすることがよくある。パソコンにそのときの原稿が残っていて、一所懸命自分のことを説明しようとして、途中であきらめたフシがある。どんな仕事をしていますか、というのがテーマだったとおもう。


 10年ぶりに、村上春樹のエッセイ集「村上ラヂオ」の続編が出た。「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」という題名です。
 村上春樹の登場は、ぼくにとって、ふたたび青春がよみがえったとおもえるくらい、画期的で新鮮な出来事だった。もう30年以上も前のことだ(その15年前、本当の青春時代にはビートルズがいた)。
 村上春樹をはじめて見たのは(ていうか、1回しか見てないけど。呼び捨てにしてごめん)、彼が48歳になった夏である。南青山の路地を歩いていて、たぶん昼食を摂った帰りの彼とすれ違った(近くのマンションに住んでいるのは知っていた)。遠くにいるときから、黒いサングラスをかけたその男が、だれだかすぐわかった。肌は日に焼けて、白いTシャツに白の短パン姿だった。スニーカーも白だったかもしれない。ショルダーバッグを斜めにかけて、日に輝く銀色のスポーツタイプの自転車を押していた。
 その前年、ぼくが20年勤めた会社が突然(でもないけど)廃業してしまい、その年の春に、仕方なく自分で仕事を起ち上げたばかりだった(老後をどうにか暮らせるお金の半分くらいの貯金があった)。ちょうど南青山のビルのオーナーのお宅を訪問しようとしていたときで、ぼくは汗をかきかきネクタイを締め、グレイのスーツを着て、いまと同じ黒い鞄をさげていた。なかにはオーダーシャツのサンプル生地帳が入っていた。
 和田誠さんのイラストをマークにしたぼくのシャツは、意外にも旧知の顧客に好評で(というより、ただシャツがほしかったんでしょうね)、蔵が建つかとおもうくらい絶好調だった。だから、和田さんがよく本の装丁を手がける村上春樹をみかけたとき、村上さん、よかったら1枚プレゼントしますよ、と軽く肩を叩きたい衝動にかられた(もちろん、しなかったけれど)。
 また15年経って、ぼくはいま一枚の繪株式会社の禄を食んでいる。仕事がポシャッチャッタからである。所属は、企画部。入社したとき、企画担当役員付とされたからである。といって、企画部の仕事も、役員の補佐もしなかった。通信教育の開講準備の時期で、仕事といったら日がなテキスト編集の資料を漁ることだった。会社の本棚の水彩画関係の本は、半年間ですべて読んだ。(中断)