銀座の路地

 並木通りと西五番街通りをむすぶ路地の出口のあたりに、とってつけたような木の戸があって、それをあけると、すぐ目の前に急な階段があった。気をつけないと、下りてくるひとがいて、すれちがうのにとても難儀した。たいていはどちらかがもどりましたが、それくらい狭い階段なんです。
 白菊は、いわゆる定食屋で、銀座のまんなかにこんなところが、と知らないひとはびっくりするような店でした。古い木のテーブルがいくつかありましたが、12〜3人もすわればいっぱいだったんじゃないでしょうか。紙に書いたメニューが壁にベタベタ貼ってあって、焼き魚やベーコンエッグといったおかず一品に、ご飯とみそ汁がついてワンセットでした。まあ、たいてい、これではものたりないので、もう一品たのむことになります。タラコとか、冷や奴とか、茄子みそいためなんか追加します。定食だけだと安かったけど、単品を追加すると、なぜかそこそこの金額になってしまいました。もちろん、漬け物の小皿はついてきますが、すきなひとは、注文すれば、よくつかった茄子や大根なんかが大きめの皿で出てくるのでした。
 ここのオーナーだったのかな、きれいな年配の女のひとがいて、いつも着物で白の割烹着をつけていた。きっと、もとは、粋筋のひとだったんじゃないかしら。いると、なんとなくそこだけ明るくなるひとっていますが、そういうおかみさんでした。カウンターのなかの厨房、というか調理場には、痩せて苦みばしった若い衆がふたり、いました。あまり目立たないのに、なにを注文しても、チャッチャと仕事して、野菜いためでも、しらすおろしでも、ホウレン草のおひたしにオカカをかけたのでも、すぐにこしらえてしまうのでした。それをテーブルへ運んだり、食べおわった食器をかたずけたりするのは、うんと年配の太ったおじさんでした。色白で、あごがたるんで、お腹が太鼓のようにふくらんでいました。ズボンが落ちないように、マタガミを極端に深くして、ふくらんだお腹の上のほうまでズボンがきていました。しゃべりかたや動作はごくゆっくりなのですが、よく見ると、手がしじゅう震えていて、すこしもじっとしていません。その小きざみに震える手で、お盆にのせたご飯の茶碗やら、みそ汁のお椀を運んできます。もちろん、お盆も、その上にのったものも、カタカタ、小きざみにゆれています。そうして、テーブルのそばまでくると、震える手で、お盆からテーブルにうつします。ご飯やおかずはいいのですが、みそ汁のときは、だれもが身を固くしたんじゃないでしょうか。ここのみそ汁は、実がシジミのことが多かったのですが、いつでも煮えくり返るくらい熱かったのです。その、熱いみそ汁のはいったお椀が、小きざみに震える手でお盆をはなれ、空中を移動し、目のまえをゆれながらテーブルに果敢に着地するまで、ぼくは、いつも、かたずをのんで見守っていました。そして、テーブルの上で、お椀のおしりが2、3度カタカタいうと、無事着地成功でホッとするのですが、ひとの心配をよそに、おじさんはぜんぜん平気で、「おーまーたーせーしーまーしーたー」と、ヨーデルのような声でいうのでした。
 路地をでた角に、老舗の袋物屋さんがありましたが、そこの社長さんとときどきこの店で顔をあわせると、きまって「うちの社員食堂へようこそ」といわれるのでした。ある年の夏、いつものように食べにゆくと、「うちの社員食堂を利用するなら、つきあってもらおうかな」といって、高校野球の対戦表をみせられました。もう時効でしょうが、いわゆるトトカルチョ野球賭博です。いいかげんな学校にマルをつけて、コーヒー代程度の金額をわたしました。わりあい、つきあいは、いいほうなんです。野球には興味がないので(長嶋さんが引退してから、野球はみません)、すっかり忘れていると、夏の終わりに、あたったよ、といって十倍くらいの金額がもどってきました。「まったくなあ、野球に関心ないひとばっかりあたちゃうんだから、こまるよ。なにか、おごれ」
 その日、居合わせたひとたちみんなに、ポテトサラダをおごって、自分の勘定をすませたら、すっかりもうけが消えました。ぼくは、路地がすきで、いまでもわざと路地をえらんで歩きます。