その日は、銀座でひとと会って、いつもより少し酒がまわっていたかもしれない。お互いに最終に間に合って、有楽町で別れた。京浜東北線の車内は混雑しており、途中の駅では降りるひとよりも乗るひとのほうが多い割には、すし詰めという具合にならず、着ぶくれた体を押し合いへし合いすることもなく、ただ混雑している印象だけが漂っていた。
 いよいよ田端に到着というところで、ガタンと電車が停車した。ざわざわした声が車内に充満したが、すぐにすすうっと引くと、今度は水のような静けさがあたりをつつんだ。遠慮がちな咳払いがときおりしたが、私はずっと吊り革にぶらさがって目をつむっていたので、ひとの気配で大したことはないと判断した。体をめぐる血液のアルコール濃度が、ひどく増しているように感じていた。矢でも鉄砲でも、といった気分だった。
 やがてまたガタンといって電車は動き出すと、すぐ田端の駅についた。車掌のアナウンスで、この電車はこの先へは行かぬという。この先で事故があったと告げた。最終だから、ホームへ降りて待っていても、次は来ない。改札を出ると、タクシー乗り場は人の列で、普段それほどのひとがタクシーを使うことがないのだろう、数台のタクシーが客を乗せて去ったあと、しばらくはタクシーの来る気配がなかった。
 これから並んでもラチが開かないと考えたのかもしれない。それとも、アルコールの力が意気軒昂とさせたのかもしれない。いずれにしても私は歩くことにした。王子までふた駅ばかりのことではないか。そうして歌をうたいながら歩き出した。歌など、平生、うたったことがない。やはりアルコールが気持ちを軽くして、歩みを軽くしているように思えた。
 次の上中里の駅を右の土手下に認めたあと、道は線路を遠ざかって暗く静かに続いている。飛鳥山までは、まだしばらく行かなくてはならない。私はいつの間にかアルコールが醒めかけて、背中を丸めてとぼとぼと歩いている自分に気がついた。もうじき年の暮れで、なんとなくざわざわした昼間の人通りの名残が、道のそこここに散らかっているような気がする。アルコールがすっかり抜けた体は、コートを透かして外気が寒い。マフラーをしっかり巻き直して、折詰めの鮨を小脇に抱えて、両手をコートに突っ込んだ。
 飛鳥山へ来ても人通りがない。タクシーは往来しているが、空車が走っていない。飛鳥山の公園沿いに坂道を右に下れば王子駅で、そこならタクシーもつかまるだろう。坂を下るに従って、公園の石垣はだんだん高くなる。坂の途中までおりたとき、下から上がって来る人影が見えた。
 私はゆっくりとおりて行く。そのひともゆっくり坂をあがって来る。次第に距離が縮まって、それが女性であることが分かった。髪の長い女性で、酒場の仕事の帰りか、青いネグリジェのようなドレスを着ている。思わず足もとを見たが、ちゃんと足はある。素足にサンダルをはいている。妙な心配をした自分に心の中で苦笑した。
 その女性とすれ違うとき、ちらと顔をうかがうと、無表情で、ガラスのような目でじっと前を見つめたままである。その途端、急に疑問が頭をもたげた。どうして、こんな寒い夜中に、素足でネグリジェなのか。まるで夏の格好ではないか。あれっと思って、確かめようと振り向いてみたが、誰もいない。片側は高い石垣で、ゆるく曲がっているが見通しのよい道路である。それなら、いまのは。私は声をあげずに叫ぶと、走らぬように気をつけながら、もううしろも見ずにひたすら歩いた。気がつくと、わが家の玄関の呼び鈴を、しゃにむに押していた。
 家のドアがあいて、玄関に立った家内が、私の背後を見て大きく目を見ひらいた。
 私は、あわてて向かいの家のドアを叩くと、高校以来の友人の甘木を起こした。甘木の細君が迷惑そうな寝起きの顔であらわれ、甘木がそのあとから顔を出した。私は玄関に飛び込むと、怪訝そうな表情の甘木に、お土産だ、といって鮨の折詰めを無理矢理押し付けると、さっと飛び出して玄関のドアをあわてて閉めた。
 
 (また、「私のニセ東京日記」が紛れこみましたことを、お詫びいたします。これは創作ですが、その後、甘木の家に起きた災難の数々は、気の毒で、口にしたくありません)