お多幸

 お多幸の店長さんが、テレビで取材をうけていた。お多幸は、ソニー通りと並木通りをむすぶ路地にあった。ロバの耳のななめ向かいあたりだった。となりに鳥ぎんもあって、めんどくさいときは、このどちらかにはいることにしていた。いまは、路地もすっかりかわって、どちらもない。鳥ぎんは、べつのところの店を改築して、きれいになって営業しているが、お多幸はやめてしまたのだとおもっていた。
 テレビの画面で、あいかわらず愛想のいいお多幸の店長さんが、浅井慎平さんがなじみのお客様で、茶めしにおでんの豆腐をのせて食べるのが好きだった、といっている。浅井さんも、お多幸のファンだったのか。
 ずっと以前、まだ原宿にセントラル・アパートがあったころ、でたばかりの著書「気分はビートルズ」(立風書房)にサインをもらいに、そこの事務所にいったことがあった。いま、銀座の広告制作会社の社長をしている矢村海彦君がいっしょだった。浅井さんは海外へ撮影にでかけていて会えなかったが、事務所のきれいな女性が、預かるから、また、電話してからきてね、といってくれた。たしか、イタバシさんといった。
 矢村君とは、商船三井のアルバイトで知り合って、30年になる。夏休みが終わっても、ぼくがズルズル、アルバイトをつづけていると、給料日にはきまって矢村君から電話がはいった。喜楽で晩めしをおごれ、というのだった。喜楽は、渋谷の百軒店、ヌードの道頓堀劇場のななめ前の中華料理屋で、いまでもある。そこで、ラーメン餃子か、チャーハン餃子を食べる。ここのチャーハンよりうまいチャーハンを、ぼくは知らない。そのあとで、ミドリ屋地下のトップでミルク・コーヒーを飲みながら、何時間も駄弁った。これだけで、みちたりて、しあわせな気分になれた。オイル・ショック、というのがかつてあって、銀座のネオンがいっせいに暗くなるほどのダメージを、日本経済はうけた。オイル・ショックがなければ、とぼくはときどきおもう。商船三井の社員になっていたのに。偶然というのは、ほんとに厄介じゃありませんか。ごく普通の男が、蜘蛛に噛まれたりするように。
 矢村君は、たまに、銀座の、ぼくの小遣いではいけないような店につれてってくれて、ごちそうしてくれる。あの日の、チャーハン餃子のお返しかもしれない。矢村君は、二浪して早稲田にはいり、1年留年した。二浪したのはじぶんの責任だが、留年したのはタカシマさんのせいだ、という。ぼくは、悪い仲間だったのだろうか。二浪して、1年留年しても、ひとは大会社の社長になれる。二浪して、8年間も大学にいたぼくは、そんなにながく、なにしてたの? とよくきかれる。ぼくは、口のなかで、ライ麦畑でつまずいて、とムニャムニャいうが、相手にはよく聞きとれなくって、えっ? とききかえされ、結局、だまってしまう。
 お多幸は、亡くなった殿山泰司さんの実家で、戦前は和光の裏通りにあったと書いてある(「三文役者あなあきい伝」講談社)。お多幸は、銀座に何軒かあったが、きっと、のれん分けだろう。ただ、ぼくのいってたお多幸が、日本橋に移ってしまったら、銀座ひるめし案内には具合がわるい。