号外 オー・マイ・ブッダ

 浅井慎平さんの写真に心酔して、カメラマンになりたいとおもったことがある。1970年代の中頃のことだ(もっと前には、岡村昭彦のライカM4とニコンFに惹かれて戦場カメラマンになろうとおもったことがあった)。
 暇なぼくは、ある日、浅井さんの事務所を探しに行ってみた。そのころ原宿交差点のそばにあった、セントラルアパートの何階かに事務所があった。
 事務所の前まで行ったとき、ドアがあいて、ジーンズの似合う背の高い男性が出てきて、すれちがいざまにぼくを見て、ニヤリとした。あとになって、浅井さんの撮影風景が載っている本を手にしたところ、その男性は浅井さんの助手だとわかった。ドアをノックしなくてよかった、とほんとにおもう。


 永六輔さんを訪問して弟子にしてもらおうとおもったこともある。それは、もっと前のことだ。並木橋の永さんの自宅の住所を調べて、渋谷から歩いていった。当時はプライバシーの保護なんてない時代だったから、電話帳を調べればすぐわかった。ただし、想定外だったのは、永さんがマンションかアパートに住んでおられ、一戸建ての家を探したので見つからなかったことだ。見つからなくてよかった、とつくづくおもう。


 まじめに大学に通わないで、へんなやつだとおもうかもしれないが、むかしはこんなことは当たり前だった。立川談志は、高校を中退して柳家小さんに弟子入りし、ビートたけしは大学を中退して浅草フランス座に飛び込んだ。傍から見ると、なにやってんだか、とおもわれるかもしれないが、本人にとってはけっこう真剣なのである。


「気分はビートルズ」(浅井慎平・1976年立風書房刊)という写真満載のエッセイ集がある。そのなかの「男たち 外人記者クラブ」に、こうある。


 記者たちは大学へ通っていた頃のフィーリング、あるいは青春の影を引きずっているように感じられた。人生への、歴史に立ち会うことへの誇りのようなもの、執着といったようなものが、その眼の奥や背中に見えた。一人の記者に、あなたの仕事を支えているものは何かと聞いたら、使命感だ、とこたえた。彼はスティーブと同じように、ちょっとくたびれたジャケットを着ていた。
 くたびれたジャケットが特派員記者の精神の具象であった。