矢村君のこと その6

矢村海彦君がT新社に入社したときは、まったくの新人だから、ADと呼ばれる下働きの男の子からはじめた。現場で蹴飛ばされたり、叱りつけられて揉まれているうちに、いつしか実力を備えてゆくのは、どんな世界でも同じことだ。
 矢村君が働いている様子は見たことがないが、たまたま用事があって会社に電話してみたら、電話に出た相手がえらく軽い調子で、矢村ちゃーん、電話ですよー、とオネエ言葉で伝えてくれた。これにはちょっと驚いた(なんたって、矢村ちゃーん、ですよ)。しかし、そういった雰囲気で仕事をしている彼の会社が、ずいぶん自由な、風通しのよいところのようにおもえた。
 ところが、入社数年後、たまたま同期の同僚たち10人ほどが集まった席で、だれかがそれとなく話をふると、俄然みんなが興奮しだして、なぜか日頃の鬱憤がいっきに爆発して、会社に対して待遇改善交渉をすることになった。T新社には、組合がなかったのだ。そこで、参加者ひとりひとりに意志を確認すると、連判状に署名することになった。矢村君も日々矛盾を感じていたから、もちろん同意した。
 本来、連判状には、指の先を切ってその血で判を捺すことになっている。しかし、それは痛いので、認め印を捺すだけにした(指先にナイフを入れて血を出すことを想像しただけで、ぼくなんか貧血を起こしそうである)。交渉当日まで、ぜったいにだれにも秘密にすることを、きびしく確認して散会した。
 ところが(またしても、ところが)、こともあろうにその日の夜、家に帰って親にペラペラしゃべったフラチな輩がいたのである(こういう男は、どこにでもいるよね)。その男は、まるで編み物同好会にでも入会したかのように、うれしそうに両親に話した。
「ぼくねー、いまねー、会社のみんなとねー、待遇改善を勝ち取ろうって、秘密組織をこしらえてるの。こんど、団体交渉をやるんだって。おもしろそうでしょ?」
 あわてた父親が、さっそく、子どもの会社に連絡して、一網打尽、芋づる式にみんな上げられてしまった(父親は、コネで息子を入社させたので、謀反など起こされたら立場がなくなるから、大慌てしたんだろうな)。矢村君は、そこのところを、あとになって喫茶店でコーヒーを飲みながら話してくれた。
「ひとりずつ、社長と役員のいる部屋に呼ばれて、そんな組合活動みたいなことはやめろ。いままでどおり会社に忠誠を誓えば、今回のことはなかったことにする、って社長がいったんです」
 矢村君は、憤慨して鼻の穴を大きくひろげた。
「その前に、みんな家で親から説得されていたのか、すぐに切り崩されて、残るはぼく一人になりました。それでもぼくは、くやしくて、自分のいってることは間違っていません、といって、うんといわなかったんです」
 矢村君は、コーヒーカップを取って口に持っていったが、カラだったので、コップを取って水を飲んだ。
「そうしたら、室長がぼくを陰に呼んで、ほかの連中はみんなコネで入ってきたやつらだけど、お前はおれがほしくって採った社員なんだから、どうか会社に謝ってくれ、といって涙を流したんです」
 矢村君は、ちょっと誇らしそうな表情をした。誇らしそうなときも、鼻の穴がひろがった。
 矢村君は、自分の上司の立場を考えると、それ以上がんばれなかった。そこで、不承不承ではあったけれど、社長に頭を下げて謝罪した。会社は、このたびのことが今後の昇進に影響がないように取り計らうと約束してくれた。すべて物事がいい方向に進んでいくように見えた。
 ところが(三たび、ところが)、矢村君のあの室長が、管理不行き届きを理由に、子会社に出向を命じられることになった。矢村君にとっては、寝耳に水だった。室長は、矢村君を呼んだ。
「おれは子会社に出向になった。形は栄転だが、体のいい左遷だよ。お前も、ここにいては、出世は望めないぞ。どうだ、おれといっしょに来ないか」
 矢村君は、室長についていくことにしたんです、といって、また、コップの水を飲んだ。
(つづく)