矢村君のこと その5

 ある日、矢村海彦君の下宿に行くと、机に向かってなにか書いていた。ぼくが上がっていくと、万年筆の手をやすめて頭をあげ、こちらを見た。
「なにか書いているのか?」
 と、ぼくはきいた。
 矢村君は、椅子から立ち上がると、台所に歩いていって、ガスに火をつけた。そしてやかんを火にかけると、コーヒーカップを2つ、ぼくがすわったテーブルの上に並べた。ダンスクのデミカップだった。
「原稿、書いてるの?」
「ええ、締切りがもうすぐなんで、けっこうたいへんなおもいしているところです。重いモンブランだと速く書けなくて、軽いシェーファーのノンナンセンスのほうで書いてます」
 矢村君が持っていたのは、モンブランの146と149という、太い軸の万年筆だった。そんな万年筆を持っているくらいだから、 矢村君は、ずいぶん以前から小説を書こうとおもっていたらしい。そういうぼくも、作家というものになりたいと漠然と考えていたが、いざとなるとなにも書くことがなくて、けっきょく口先ばかりだったから、「評論家」とか「予告編」とかいう悪口を陰でたたかれていた。
 矢村君がこのとき応募したのは、たしか小説現代新人賞だったとおもう。第1次審査にパスして、月刊誌紙上に1次選考通過者として彼の名前も載った。彼はその号を何冊か買って、1冊を実家のばあさまに送った。「バックヤード・ララバイ」という、レーサーが主人公の小説だった。
 矢村君がひとりで詩人の田村隆一さんを訪ねたのは、1978年7月16日である。矢村君に預けて、田村さんにサインをしてもらった本にそう書かれている。このとき、矢村君は、伊丹十三のCMをもじって、ぼくとの出会いを誇張して話したらしい。
「佐賀出身のぼくと、青森出身のタカシマさんが、広い東京でバッタリ出会う確率はきわめてすくなく、しかもこれが絶妙な組み合わせとなる確率はもっとすくなくて、それなのにぼくらは云々」(ま、あのころは、しょっちゅう会ってたからね)
 これには、じつはウソがある。話を面白くするために、矢村君はちょっと創作している。というのは、ぼくが東京の出身だからだ(もっとも、ぼくの父は、青森県北津軽郡、あの太宰治の出身地の隣り町で生まれたのだけれど)。
 矢村君は、そのとき、ぼくにかこつけて、彼は小説を書きたいそうなんですけど、といった。詩人は、うーん、とうなって目をつむると、こぶしを額にあてて、
「小説を書くということは、とっても大変なことなんだよ」
 とつぶやいた。
 それでですね、と矢村君はサイン入りの本を渡してくれるとき、ひととおり話してから、面白くなさそうにいった。
「タカシマさんのことばかり、田村さんは話題にして、あの男はまじめだ、まじめだ、と何度もいうので、なんだかぼくはしらけましたよ。きっと、前に行ったとき、タカシマさんがスーツでネクタイ姿だったせいだな。そうでもありませんよって、よっぽどいってやろうかとおもいましたよ」
(つづく)