綿貫君

 綿貫君は、2年くらいしてから、帰国した。本人の計算では、10年くらいいるつもりだったのだが、フランス人ばっかりで退屈しはじめたらしい。パリでは、アパルトマンを借りて、毎日、自転車にのって街じゅうを走りまわっていた、といった。ラーレーというイギリス製の自転車で、サドルとグリップがエルメス特注の革製だった。それで、ほとんど毎日、エルメスに遊びにいったから、すっかり顔なじみになって、のちに重役になったパトリック(入社したてで、まだペーペーだった)とは、友だちづきあいまでするようになった。
 はじめのうちは、毎月、母からきちんと決まった金額の仕送りがあったんです、と綿貫君はいった。そのうちに、どーんと大きな金額が送られてくる月があったり、送るの忘れちゃう月があったりして、ほんとにたいへんでした。お金、ちゃんと送ってくれるものとおもってるじゃないですか、だから、もうそろそろかなってときには、そのつもりで使っちゃうんですよ。計算ミスでした。いつまで待っても、ぜんぜん届かなくて、食事なんか、ジャガイモばかりで1週間食いつないだこともありました。どーんと大きな金額って、いくらくらい? 200万くらいかな。それをどれくらいで使うの? その月に使っちゃいます、翌月も当然あるものとおもってますから。それで、すくないときで、いくらくらい? 20万ほどかな。すぐなくなっちゃいますよ。それしか送金がないときには、なに考えてるのかな、とおもっていると、またすぐに同じくらい送って来るんですよ。いっぺんに送ればいいじゃないですか。途中から、母はズボラで忘れたり、手を抜いたりすることがよくわかったから、ぜんぶは使わないで、1、2週間は暮らせるように取っておきました。あんまり会わないでいると、息子のこと、忘れちゃうんですかね。
 フランスからもどった綿貫君は、もうアンティークの店はやる気がしない、といった。もう駄目ですね。計算ミスでした。目ぼしいものは、みんな日本人が買い占めちゃって、いいものはあまり残っていませんでした。それより、花屋をやろうとおもうんですが。綿貫君がパリでいちばん感動したのは、鉢植えの花をプレゼント用に切るところを見たときだった。日本じゃ、そんなことしないでしょ。でも、鉢植えの花が並んでいて、これって指さすと、鉢からその花を鋏でチョキンと切って包装してくれるんです。ああ、こんなふうなのいいなっておもったら、日本に帰って花屋をやってみたくなったんです。綿貫君は、しばらくして、紹介されて花屋に勤めはじめた。花の扱い方や、仕入れを教えてもらいます。それと、生け込みを習って、基本をマスターしなくちゃ。綿貫君は、ときどき、勤め先の町屋から、ラーレーにのって銀座に遊びにきた。そして、金持ちのくせに、いつもひとにたかるのだった。お多幸ごちそうしてください。鳥ぎんでもいいな。じぶんで女の子と食べにゆくところは、レカンだったりマキシムだったりするくせに、ぼくのふところ具合をよく知っているのだ。しかし、バレンチノのポロシャツに、エルメスの皮ジャンパーを着て、ジョン・ロブの靴をはいた男が、おでん、たかるかね。
 原宿にブラームスの小道という通りがある。竹下通りから1本はいった通りだ。ちょうど、そこにビルが建って、新しく通りができるとき、綿貫君は契約をかわした。ビルが建つまえだと、2割くらい安いといった。とうとう、ほんとうに花屋をはじめることになったのだ。ただし、日本の花市場の流通の関係で、鉢植えの花をその場で切って包装することはムリだった。そのかわり、最高の花を、最高の値段で売ることにした。1本1万円のバラ!
 オープニングパーティーの日、床じゅうをバラの花びらで飾ろうと、朝から花びらをむしりはじめたが、ちょとした計算ミスで、用意したバラが足りず、花びらは壁から30センチばかり、帯のように部屋のまわりを縁どっただけだった。綿貫君にしてはめずらしく、くやしそうな表情をした、と準備を手伝った友だちからきいた。
 いいじゃないか、ともかく、出発したんだ。おめでとう。で、開店するのに、いくらかかったの? 6000万円、とりあえず母から借りました。ふーん、バラの花、6000本売ればいいんじゃない。計算ミスがなければ。
 翌日、シャッターを閉めているところへ、綿貫君が顔を出した。おでん、ごちそうしてください。