シャツ職人の加藤さん

 大井の加藤さんの話をします。加藤さんは、シャツの職人さんでした。戦前のことですが、加藤さんのお父さんは、競馬の騎手の帽子をつくる人でした。しかし、息子にはもっと将来性のある仕事につかせたいと考えました。騎手の数には、限りがあります。けれど、大勢の人が必要とするものをつくる仕事なら、儲かるに違いありません。といっても、いくらでも仕事がある時代ではありませんでした。そこで、知り合いの青山のワイシャツ屋さんに、小僧として置いてもらうことにしました。シャツなら大勢の人が着るではありませんか。当時、青山のシャツ屋さんには、そういう見習いの弟子が20人くらいいて、一所懸命仕事をおぼえながら、すこしずつシャツづくりに参加していったようです。裾巻き3年、といって、シャツの裾をまあるくきれいに縫えるまでに、3年かかったといいます。もっとも、それより早くできるようになったとしても、きっと3年のあいだはそればっかりやらされたんでしょうね。基礎をがっちり習得すれば、その上のことはわりあい容易に身につくようです。現に、裾巻きばかりやらされるうちに、先輩たちの仕事をじっくりと眺める機会をあたえられて、次の段階にすすむとき、いつのまにか、教えられてもいないのにできるようになっていたそうです。
 やがて太平洋戦争がはじまると、その20人くらいいた職人さんたちは、みんな戦地にかり出され、戦争がおわったとき、無事に帰ってきたのは4人だけでした。その1人が加藤さんです。職人さんには、自分で店をやって、注文をとって仕事をしてゆく人と、シャツを扱う店の専属の職人として仕事をしてゆく人がいます。加藤さんは専属の職人の道を選びました。
 ぼくがフジヤ・マツムラに入社したころには、加藤さんの名は名人として、お客様にまで知れわたっていました。よそのお店の3倍も4倍もする高いシャツですが、注文が殺到していました。時代という言葉で片付けてはいけないのでしょうが、まさにそういう時代で、またそういう時代にふさわしいお客様がひしめいていらしたのです。
 大井競馬場のそばの加藤さんの家に行くと、夏なんか、ステテコにランニングシャツ姿で、頭から湯気を立ててミシンを踏んでいます。ミシンの上の壁の棚には、もうとっくに出来上がっているはずの生地が、まだたたんだままで積んであります。それも、山と積み上げてあります。通常、2週間でお納めします、とうたっているシャツです。ずんぐり小太りの加藤さんは、ちらとぼくを見て、タオルで汗をぬぐいながらミシンの手をやすめます。さあ、はじまるぞ。ぼくも、もうなれっこで、そっと身構えます。加藤さんは、とつぜん、怒りだすのです。
 あなたね、会社のほうからいましがた電話があって、あなたが取りにいくから渡してくれなんて寝ぼけたこといってたが、とてもじゃないけど出来ないよ。こっちは寝ずにやってるんだが、出来る量なんて決まっている。それを、やいのやいの催促されたんじゃ、とても仕事にならないから、ぜんぶまとめて持って帰ってくれ。名人加藤は、大学教授の風貌です。
 もう、ひと月おくれなんてのが出てきていて、いまある全部が片付くのには2カ月はかかるだろう、とぼくは目で計算します。怒鳴り声をききつけて、裏にいた奥さんが顔を出します。あらあら、どうもごくろうさま。お暑かったでしょう。麦茶をどうぞ、冷たいだけで。なんですか、今年はおかげさまでたくさんお仕事をいただいて。夜おそくまで、うちの人、あなたに迷惑かけちゃいけないからって、がんばってるんですけどね、なかなかはかが行かなくって、自分にじれているんですよ。奥さんは、いつでも穏やかで、笑顔を絶やしませんでした。
 奥さんが取りなすと、加藤さんは気がおさまったのか、まあ、あなたに文句いってもはじまらないんで、順に片付けてゆくから、お客様にはそういってください、とてれくさそうに半分だけ笑い顔になります。それから、そうですね、2時間ばかり、日頃だまって仕事をしているストレスの発散になるのか、ぼくをつかまえておしゃべりがはじまります。ぼくは、壁の時計にときどき目をやって、ずいぶん時間がかかっちゃたなあ、とこころのなかでつぶやきます。
 出来た分だけ袋に入れて、帰ろうと家の外に一歩踏み出したぼくに、加藤さんが話し足りなそうに声をかけてきます。あーあ、床屋になればよかったな。床屋なら、時間になったら表を閉めて、けっして棚の上に頭をつみあげとくことなんか、ないものな。