Y氏とぼく

 入り口から二人の男がはいってきたとき、ぼくは、ヤバイかな、とおもった。
 Y氏が椅子にかけられて、ご家族を待っておられるときだった。男たちは、黒っぽいスーツにネクタイをしめてるが、見るからに危険な感じがあって、二三歩はいって立ちどまった。入り口付近の女子社員は、あまりに場違いな様子の二人に、声も出ない。丸刈りの大きな頭に、太い眉毛のY氏の眼は、厚いまぶたにおおわれて、つむったままだ。男の一人が、もう一歩まえにでた。ぼくも一歩まえにでて、笑顔をこしらえて、いらっしゃいませ、と声をかけた。
男がぼくをしばらく見て、ふん、というそぶりで、きびすを返した。二人が出て行ったあとで、眼をあけたY氏は、ぼくの顔をみて、「いろいろな人間がおるのう」といわれた。
 ぼくは、万一の場合、Y氏のかわりに刺される覚悟をしていたから、なにもなくて気がゆるんだら、とたんに手が震えだした。気づいたY氏は、「ほう」といって、半分笑われた。
 Y氏は、かつての血盟団事件の関係者で、「右」の代表のようにいわれることもあったようだが、ぼくは、政治も経済も社会も文化も、それにスポーツだってオンチだから、よくわからない。ただ、Y氏がぼくをかわいがって、ひいきにしてくださる以上は、いざとなったらお腹のひと突きくらいは我慢しなくちゃ、と、とっさにそのときおもっただけだ。
 Y氏は、ぼくが日本橋高島屋にあった支店に出向していたとき、わざわざ会いに来られた。お嬢様が先にみえて、「あとから、父も来ますから」とおっしゃて、用事をすませに行かれたあと、しばらくしてY氏の声がした。2階のサロン・ルシック(この名前は、フジヤ・マツムラがつけたんです)は、まんなかが吹き抜けになっていて、回廊がひとまわり回っている。その回廊をY氏は、ぼくをさがしながら歩いてくる。「おい、タカシマくんはどこにおる! タカシマくんはどこかな? タカシマくん、いたら返事をしろ」と、大声をあげながら、あっちを見たり、こっちを見たりして、悠々と歩いてこられる姿を見たら、恥ずかしくて、うれしくて、目がうるんで、Y氏が二人に見えた。「おお、こんなところにおったか。銀座に行ったら、こっちにいるというから、会いにきたぞ。何がいいんだ? なんでも買ってやるぞ」
 独立したとき、築地の会社の社長室にぼくはよばれた。「やあ、きみか。はいって、そこにすわれ。どうした、元気か? どうしておるか、家でも心配して、話しておったよ」
 ぼくは、Y氏の語録をさしだして、ご署名をおねがいした。フジヤ・マツムラの記念に会社の棚からもらった本だ。「きみもおかしな男だな。もらってくるなら、もっと気のきいたものがあったのではないか」と、笑いながらおっしゃって、机の上の大きな紙袋からお札をつかみだすと、ぼくのまえに置かれた。「これをもってゆけ。仕事をはじめたばかりのときは、いくらあっても邪魔にならんだろう」
 お預かりした金額は、ワイシャツのご注文をいただくたびにそこから清算して、やがて相殺しきった。「きみは、結局、ワイシャツにして返してよこしたのう」いつかY氏は、そういってちらりとぼくを見た。
 平成11年、念願の文集「南洲遺訓」の私家版を、西郷吉太郎氏と共同編集されて、発行された(Y氏も西郷隆盛と血縁)。お嬢様からワイシャツのご注文があって、できあがったら会社に届けるように、とご指示があった。お届けに行くと、秘書の方から、「南洲遺訓」の一冊をわたされた。お嬢様に電話でお礼を申しあげると、「父がどうしてもタカシマさんに読ませたいって。ご迷惑かもしれませんけど、貰ってあげてくださいね」といわれた。
 Y氏の「語録」にも「南洲遺訓」にも、見返しにY氏の筆の署名がある。「高島学兄」とある。貝塚茂樹先生がなくなられたあと、居間の隅の机の上に、「御供」と墨で書かれたのし紙のかかった白い箱が置かれていた。Y氏の字だったので、奥様にうかがうと、「ときどきみえて、主人とならんで椅子にすわって、いつもしずかにお話してましたよ」とおしえてくださった。ぼくは、俗物だから、高尚なお話の内容など関心がない。白い箱はなんだったのか、お会いしたとき、Y氏にたずねた。妙なことをきく男だのう、というあきれた表情で、つぶやかれた。「あれは、たぶん、かるかんではなかったかな」
 新聞にY氏の写真がのっている。「歴代首相の『指南役』」とあって、「重いものを背負い続けた”昭和人”は大げさな葬送もなく、静かに退場した」とむすばれている。